先日のFacebookでもアップしたが、1/29に四谷三丁目の野球居酒屋「あぶさん」にて日立一高の仲間、そして先輩と集まり、母校野球部のこれからや、我々の人生について語らい合った。
当日集まったメンバーを紹介しよう。

現在、日立一高野球部外部アドバイザーとして、母校野球部を側方支援するバトミントン部の小池康裕先輩。
通称、小池パイセンは私と同じ広告業界で大活躍されていて、私のなかでは仕事で尊敬しており、また「母校野球部愛」という点では野球部OBで無い者同士、シンパシーを共感し合えている大切な方である。
また、高校入学時には野球部入部と阪神タイガース応援のどちらを取るか迷い、タイガースを取ったという究極の方で、校舎内をタイガースのハッピを着て歩いていた個性派でもあった(笑)

我らが同級生は愛する日立一高野球部で控え投手でありながら主将としてチームをまとめ上げた安島尚毅。
昨年3月までは高萩清松高校野球部監督を務めていたいわば高校野球の現場にもっとも近い立場を歩んでいる。
高校時代から将来は高校野球の指導者になりたいという明確な意思を持って初心を貫いた人格者だ。
後に進学した千葉大学硬式野球部では捕手に転向し、千葉県大学連盟でのチーム1部昇格に貢献している。
今は現場から離れた立場で仕事をしており、本人としてはもどかしい思いもあるようだが、いつか一皮剥けた指導者として成長し、現場に戻ることだろう。

そして、同じく野球部で1年夏からベンチ入りを果たし、1987年夏の茨城大会ベスト4進出、同年秋からはエース背番号を背負い続け、1988年夏の茨城大会ベスト8進出の原動力ともなった黒田大輔。
180㎝を超える長身から投げ下ろすストレートには魂が込もっており、迫力十分であった。
あのストレートを見てしまうと、誰がどう思うが日立一高のエースは黒田なんだと思わせる風格があった。

そして、バレーボール部出身の栗本康夫。
実は彼と私は幼稚園が同じ。
小学校~中学校は違っていて高校で再会も高校時代は会話をしたことさえない。
にもかかわらず、一昨年に初めて飲んで、初めて会話をしてからはちょくちょく飲んでいる。
地元日立の企業の東京支店で営業マンとして活躍している。

私たちが在学中であった今から25~27年前の野球部について少し触れておく。
先日は会えなかったが、黒田と安島の2人、それに私の草野球チーム「ハマーズ」メンバーとして、時々マウンドに上がっては試合を作る日高洋介という奴もいた。
私と同じベイスターズファンで1998年のベイスターズリーグ優勝時には真っ先に私に電話を掛けてきてくれて、喜びを分かち合った仲だ。
この黒田、安島、日高の右腕トリオが私が在学中の1987年秋以降、日立一高マウンドを支えた。

一つ上の学年の野球部の先輩が5人(うち1人が現日立一高野球部中山監督)しかいないうえにピッチャーもいないに近い状況であったこともあり、黒田、安島、日高の右腕トリオは1987年秋から1989年夏までマウンドを守り抜き、1988年夏の茨城大会ベスト8進出に貢献したのである。
今考えてみると、1985年夏に甲子園出場を果たしているとは思えない野球部員の少なさではあった。

そんなことを断片的にツラツラと思い出したので、しばらく「白堊!日立一高野球部メモワール」をシリーズ展開することにしよう。

つづく。

※当ブログに登場された方々、ほとんど許諾を取らず掲載させていただく無礼をお許しください(笑)