まず、法華講と学会員がいろいろなところでやりあっていますが、ここでは、違う視点で、それでもって、ここをみているみなさんにわかりやすく自分の疑問を吐き出したいと思います!!


まず、日蓮大聖人の仏法の一切は経典による仏法でしょうか??それとも口伝・書物などによる相伝による仏法でしょうか??


ここの突破口の時点で、法華講と創価学会の言い分が違うので、交わることは一切ないでしょう~

そこで勝手に検証~~


日蓮大聖人の仏法をするうえで我々信徒が重要視するのは「御書」!!これは間違いないです!!
「御書」とは、おもに一般在家の方々の尋ねたことに大聖人が答えた「返書」を第二祖日興上人が集めて書物にしたものです!!


ここでひとつ気になるのが。。一般在家の方々の尋ねたことに大聖人が答えた「返書」。。


つまり、すべての人々全員への手紙ではない!
○○さん限定のお手紙!!

みなさんは手紙書くときにどういう風にかきますか??

きっと、相手の状況や、相手の理解度に合わせて書くと思います!!
一つの答えを導くのに、方程式に詳しい大学生とまだ方程式を知らない幼稚園生に同じ文章をいうことはないとおもいます。


また、大聖人と同じことを理解できることはないとおもうので、その方に分かるように方便などを交えながら返書をだしていたのではないかとおもいます!

なにがいいたいかというと、一つの返事だけとっても、いろいろな解釈ができてしまうのです!!もちろん全員が仏眼をもってその仏眼が開かれているならその解釈が狂うことはないと思います。


たとえば日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
「所詮(しょせん)迹化(しゃっけ)・他方(たほう)の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず。末法の初めは謗法の国にして悪機なる故に之を止(とど)めて、地涌千界(じゆせんがい)の大菩薩を召(め)して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮(えんぶ)の衆生に授与せしめたまふ。又迹化の大衆は釈尊の初発心の弟子等に非(あら)ざるが故なり」
(新編御書657・全集250・編年体540)


とあらわしておられますが、内証の寿量品はどんな解釈をすればいいのでしょうか??


ちなみに大聖人直結とおおせられるならこの御文がかるのでしょうか??
創価学会の学会員全員がわかる(同じ)という解釈でいいのでしょうか??
創価学会員はみな大聖人直結なので、だれからも聞かずそれぞれが解釈でき、しかも同じ解釈になるということでよろしいでしょうか??
御年配の方から、幼児まで直結故、それぞれが解釈できるといってよろしいのでしょうか??


とある学会員さんが、とある法華講さんのブログにて

「残念なながら日蓮大聖人の弟子に

はなれないですね

自分と大聖人の間にも御僧侶や

御歴代御法主上人猊下からの御指南が

必要と仰るんですね」


と書いております!!

ということは学会員は誰の指南もなくても大聖人の御書や仏法を理解することができるということでよろしんですね??


法華講では、御書より
「この経は相伝にあらざれば知りがたし」一代聖教大意(新編92頁8・全集398頁3)


「当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり」立正観抄(新編770頁6・全集530頁15)

「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。」本因妙抄(新編1684頁12・全集877頁9)

「但し直授(じきじゅ)結要(けっちょう)付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」百六箇抄(新編1702頁6・全集869頁9)


「秘すべし秘すべし、唯授一人の相承なり、口外すべからず」御義口伝(新編1796頁6・全集783頁8)


また御本尊七箇之相承には
「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」


ここから、日蓮大聖人、二祖日興上人、三祖日目上人・・・・・六十八祖日如上人と経が引き継がれ、御法主からその弟子の御僧侶を経て、檀家である我々までこの経を知ることができる。


これが、創価学会(日蓮大聖人直結)と法華講(唯受一人の血脈相乗・相伝)の明確な違いです。


もうひとつ、ここで疑問なのが。。


現代は、教育と印刷技術の向上で、ほぼ全員が御書を排することができます。

さて、この仏法の始まりの鎌倉時代、そして室町・江戸・・・は、今のように一般信徒まで御書で仏法を学ぶことができたのでしょうか??

私その時代には生きていないので仮定になりますが、字を読める人のほうが少なかったのでは??とおもいます。

ということは、字が読めない人は御書根本・大聖人直結だとこの仏法が実践できないことになりますね!
ではみなさん誰一人成仏できてなかったということになりますね??

そんな仏法に命をかけるんですか??

ましてや、御僧侶でも御書を排したことがない人もいるかもしれません!!


では何のために御書があるのか??


もちろん大聖人の金言であるゆえ、字の読めない・経のわからない人に対しての説法等で、大聖人の仏法を広めるために御法主や御僧侶たちが利用されたということが想像できますがいかがでしょう??


つまり、成仏するための根本は御本尊であり、題目であり、しゃくぶくである。それを助けるための金言ではないのでしょうか??


もちろん日興上人が残した書物も、今はわれわれが見ることができるが、かの時代は、その書物ごとに「代々の御法主に書いたもの」「御僧侶にかいたもの」「一般信徒にかいたもの」とわけてあって、誰もがすべて排することはなかったのではないでしょうか??


もしその仮定をもとに読むと、御書や日興遺誡置文などもわざわざ回りくどい(いかにも日蓮正宗が悪いように)解釈しなくとも素直に読めると思うのですが。。

そして御書や日興遺誡置文などの解釈にいちいち一一般信徒が自分の己義をいれながら曲げて解釈することもないとおもうのだが。。


大聖人様の御書を根本に仏法ごっこしている団体もいるみたいですし。
てか、御書を根本に仏法ごっこしている団体達ですね!!いくつかありますね??

みんな同一にみえますが。。


さて、近所の学会員のおばちゃま方や児童達が、本当に御書をよめるのか気になりなす故、近々聞いてみたいと思います!!ながくなっちゃうのでこの辺にしときます!!


前にも予告しましたが、日興遺誡置文(特に「時の貫主~~」)についてはまた次にかきます~~
もちろん日興遺誡置文が誰に向けて書いた文章なのか、一般信徒に向けた文なのか、御僧侶に「かいたことなのか、それともこの法を永遠に守る根っこである御法主について書かれたのか??から独自の検証をしたいとおもいます!!


まあ~そ~ゆ~こっちゃ!!