さ~て、先日、熊野本宮大社に関する資料を読んで居りましたら、宮司の御名が『九鬼家隆』氏との事。

 

『隆』の文字がある事から、あの九鬼水軍の御子孫かな?と思い、少し調べて見ました。

 

ざっと、調べましたところ、やはりその様でした。

 

江戸期は、綾部藩主家で、維新後は子爵の血筋の様です。

 

と言う事で、今日は、『熊野本宮大社』に関して見て参ります。

 

以下、熊野本宮観光協会の公式ホームページに掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

はるか千年続く、熊野詣の願いが聞こえる

全国の「熊野神社」の総本宮にあたる熊野三山。
三山の中でもとりわけ古式ゆかしい雰囲気を漂わせるのが、聖地熊野本宮大社です。

熊野参詣道の中でも、多くの人々が辿った「中辺路(なかへち)」を歩くと、難行苦行の道のりを終え最初に辿り着くのが熊野本宮大社です。

最初に熊野本宮大社を望む「伏拝王子」の名は、やっと辿り着いた熊野大社を伏し拝んだ、との由来からと伝えられています。

この熊野本宮大社は、平成7年(1995年)には社殿が国の重要文化財に指定されました。


本殿へと続く158段の石段の両脇には幟がなびき、生い茂る杉木立が悠久の歴史を感じさせます。

神門をくぐると檜皮葺の立派な社殿が姿をあらわします。


向かって左手の社殿が夫須美大神(ふすみのおおかみ)・速玉大神(はやたまのおおかみ)の両神。中央は主神の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)。そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られており、交通安全、大漁満足、家庭円満、夫婦和合、長寿の神として人々を迎え入れて来ました。

 

かつては、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありましたが・・・明治22年(1889年)の洪水で多くが流出し、流出を免れた上四社3棟を明治24年(1891年)に現在地に移築・遷座しました。

本宮大社の石段

熊野三山信仰について

熊野三山

熊野本宮大社
熊野本宮大社(田辺市本宮町)
熊野速玉大社
熊野速玉大社(新宮市)
熊野那智大社
熊野那智大社(那智勝浦町)

熊野は古くから人々の熱い信仰に支えられた聖地であり、『伊勢へ七度、熊野へ三度』とさえ言われている。
本宮の地に神が祀られたのは、今からおよそ2000年前、第10代崇神天皇の世と言われているから、ずいぶん昔の事である。

 

熊野詣が盛んであったのが、平安時代の中期から鎌倉時代に掛けてであると伝えられている。

 

延喜7年(907年)、宇多法皇以来、法皇上皇の御幸も盛んで白河上皇の9度、鳥羽上皇の21度、後白河上皇の34度、後鳥羽上皇の28度と多くを数えたが・・・弘安4年(1281年)、3月、亀山上皇の御幸をもって終結をつげている。

 

江戸時代に入って、元和5年(1619年)、紀州藩主徳川頼宜が熊野三山の復興に力を入れ、再び「蟻の熊野詣」の最盛期を迎える事が出来たとある。

 

言うまでもなく、身分や階級を問わない多くの人々が熊野に憧れ、救いを求め、甦りを願って異郷とも思える山深いこの地を目指したのです。

 

文:湯の峰温泉 民宿小栗屋 元主人 安井理夫

 

と言う事です。一度、参拝して見たいですね。

 

ところで、ふっと、思った言葉・・・思案投げ首(しあんなげくび)。

 

意味は、知っていると思っているのですが・・・その語源は?と思った次第です。

 

そこで、少し調べて見ました。

 

以下、imidasに記載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

様々に考えて見ても一向に良い知恵が浮かばず、しきりに首をかしげている様子・・・思案「無げ」と「投げ」をかけた語呂(ごろ)合わせ、との事でした。

 

では、本日の小職の予定です。

 

今日は、多くの時間、山積している書類と格闘します。

 

ただ、朝夕は、社会福祉法人に参ります。