さ~て、数日前、興味深い話題に接しました。

 

それは、石田三成の重臣・島左近のものと伝わる墓から、ほぼ全身の骨が発掘されたと言うモノでした。

 

以下、讀賣新聞(6月6日配信)の記事を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

     大阪城天守閣が蔵する島左近の画像

 

 戦国武将・石田三成の重臣・島左近のものと伝わる墓の発掘調査が6月5日(水)、京都市上京区の教法院(きょうぼういん)で行われ、ほぼ全身の骨が見付かった。

 

 左近の骨かどうかは不明だが・・・今後、骨の年代などを調べるという。 

 

 左近は「治部少(三成)に過ぎたる(もったいない)ものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と評される程、有能な家臣だった。

 

関ケ原の戦い(慶長5年(1600年))で討ち死にしたとされるが・・・生き延びたとの説もあり、墓が左近の出身地とされる奈良県など各地にある。

 

島左近のものと伝わる墓の発掘調査をする京都芸術大学の石神裕之教授(左)ら。手前は出土した人骨(6月5日、京都市上京区で)=川崎公太記者撮影

 

 教法院の墓には、左近が土葬されたと伝わる。

 

墓碑と過去帳には、左近が寛永9年(1632年)に没したと記されている。

 

調査は、墓石の修復と建屋の新設に伴い、京都市文化財保護課や京都芸術大学の石神裕之教授(近世考古学)らが実施。

 

読経後に墓石があった場所を約20㎝掘ったところ、甕(かめ)式の棺(直径45㎝)が見付かり、中に頭や顎、骨盤などの成人と見られる骨が入っていた。

 

調査に立ち会った歴史学者の磯田道史氏は「左近は民衆や敵方からも崇敬を集めた武将だった。本人の骨かは分からないが・・・研究が進むのを楽しみにしている」と期待した。

 

教法院の三木天道住職(53)は「今後、専門家と協力して骨の調査を進め、実像に近付ければ。墓所は整備後に改めて公開したい」と話している。

 

と言う事なのです。今後の調査結果は興味深いですよね。

 

ところで、先日、ある文章を読んでいまして、へ~え、と言う事に出会いました。

 

京都の夏の風物詩『川床』・・・この呼び方がふたつ『かわゆか』と『かわどこ』が。

 

何故、ふたつの呼び名が?その事に触れた文章でした。

 

『かわゆか』は、京都市街を流れる鴨川に設けられた納涼床。

 

『かわどこ』は、鴨川源流域である鞍馬や貴船を流れる渓流の直ぐ上に設けられた床、だそうです。

 

文化のひとつに触れた感じがしました。

 

では、本日の小職の予定です。

 

午前中は、山積している書類と格闘します。

 

午後は、あるフォーラムに出席するため、都内に行って参ります。