さ~て、先日、ある資料を読んでいましたら『磐城平 元文一揆』と言うモノに出会いました。

 

その資料から概要は理解出来たのですが・・・さらに、調べて見ました。

 

以下、平凡社の改訂新版 世界大百科事典に掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、執筆者は、青木美智男氏です。

 

また、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

元文3年(1738年)、磐城平藩内で起こった全藩的な百姓一揆。

 

磐城平藩主・内藤氏は、入封直後から財政難に悩まされていたが・・・享保期(1716年-1736年)には、幕府から命ぜられた日光参宮普請手伝、渡良瀬川改修手伝などの臨時支出や、米価低落、諸物価高騰のために極度の財政窮乏に陥った。

 

これを打開するため、領内の特産品に対して新税を賦課するなど、主に農民の商品生産や商品流通に対する課税を強めたため、稲作の他、こうした生産に力を入れて農業経営をようやく維持して来た全領の農民を動揺させた。

 

領内の村々は、新規課税などの撤回を求めて寄り合い、元文3年(1738年)9月18日、芝原村長次兵衛、中神谷村武左衛門らの指導の下に蜂起して城下へ押し入り、町会所をはじめ牢舎、藩役人宅を打ちこわし、年貢諸帳簿を破棄し罪人らを解放して城下を占拠した。その数は2万人に及んだ。

 

指導層は結集した農民の圧力を背景に藩に対して、課税強化を企画した勘定方の役人の引渡しと21項目に渡る〈惣百姓願書〉を提示して藩側に新規課税他、常々、農民を悩ました諸政策の撤回・改善を求めた。

 

藩側は返答を引き延ばした上、一時全面的に要求を受け入れる形を取って、農民側を油断させて指導層を逮捕し、その後ほぼ農民の要求を拒否すると共に弾圧を強化して一揆を強引に終息させた。

 

しかし、領内はその後もしばしば不穏な状況が続き、逮捕された指導層が牢内で抵抗し、罪状を認めなかったために一揆の処理には約1年を要し、藩政に多大な影響を与えた。

 

この失政が、延享3年(1746年)内藤氏の日向国延岡転封の要因と成ったと言われている。


と言う事でした。磐城平で、大混乱が起きた様ですね。

 

ところで、先日、ある文章を読んでいましたら『就中』との記述に出会いました。

 

小職、読む事が出来ませんでした。

 

そこで、調べて見ました。『なかんずく』と読むそうです。

 

因みに『就中』は、 

 

[副]《「就中」を訓読みにした「なかにつく」の音変化》その中でも。とりわけ、と言う意味ですね。

 

以上の事は、小学館のデジタル大辞泉から情報を拝借です。

 

では、本日の小職の予定です。

 

今日は、先ず、教育事案に伍します。

 

その後、多くの時間、NPO法人事案(収益法人事案を含む)に御します。

 

ただ、朝夕は、社会福祉法人に参ります。