さ~て、先日、ある資料を読んでいましたら、校正の神様『神代種亮』と言う人物に出会いました。
興味を持ちましたので、さらに、調べて見ました。
以下、デジタル版 日本人名辞典+Plus に掲載されていた内容を転載させて頂きます。
尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。
明治16年(1883年)6月14日生まれ。郷里島根県で小学校教師を務めた後、上京し、明治文学、特に書誌を研究。
また、産経新聞(平成30年(2018年)7月15日)には、以下の様な記事が掲載されていました。
尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。
取材後記(6) 清流の後 校正の神様・神代種亮
平成24年(2012年)5月から約6年にわたり市川清流とその周辺を調べ、関係者らに取材した私の連載も最終回となった。
清流については文久元年(1862年)の遣欧使節団に参加した後は、その足跡を記した資料は見付からなかった。
維新後、新政府に採用された経緯から、旧幕府の開成所で洋書や外字新聞の翻訳文を校閲・校正していたのではないかと推測した。
幕末や明治初期を「日本語」と、それに関わる翻訳や校正などから見つめる作業は、当初真っ暗な夜道を手触りのみで進むような不安があった。
資料が集まり、貴重な時間を割いて取材に協力して頂いた各方面の先達や関係者たちの話を聞くうち、何がしら手応えを感じられる様に成った。
連載が3分の2を過ぎた頃には、清流その人と岩瀬忠震や大槻磐渓、箕作麟祥、福地源一郎ら彼に関わった人達が日本語について「熱い議論」を交わす様子が浮かび上がって来た。
清流は明治12年(1879年)10月、58歳で死去する。
その後の校閲・校正の分野は誰が担いどう変化したのか-ひとりの男に注目して見たい。
芥川龍之介や永井荷風、姉崎正治ら著名な作家や学者が自著の校正を依頼し、昭和初期に「日本校正協会」を主宰して校正の神様と呼ばれた神代種亮の事だ。
※ 神代は「校正家、とでも言うより仕方のない畸人伝中の人」(「文豪たちの大喧嘩」谷沢永一著、新潮社)であり、本人と交際のあった岡野他家夫(たけお 明治34年(1901年)~平成元年(1989年))は「頼まれもしないのに、諸大家-学者・文人の著書などに就いて正誤を厳密に指摘して、各著者に報告した」(「書國畸人伝」昭和37年(1962年)、桃源社刊)としている。
尚、文中にある『市川清流』と言う人物の概要は、以下の通りの様です。
情報源は、講談社のデジタル版 日本人名大辞典+Plus です。
尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。
1.生まれながらにしてそういう性質を持っている事。生まれつき。せいとく。
2.(副詞的に用いて)生まれつき。元々。
と言う事でした。
では、本日の小職の予定です。
今日は、先ず、教育事案に伍します。
その後は、多くの時間、NPO法人事案(収益法人事案を含む)に御します。
ただ、朝夕は、社会福祉法人に参ります。
そして、時間の合間を縫って、眼科に行く事が出来れば良いのですがね。