さ~て、先日、ある資料を読んでいましたら、久し振りに『伊賀盛光』と言う人物に出会いました。

 

歴史好きの小職、同人物は知っていましたが・・・今日は、小職の復習の意も込めて『伊賀盛光』に関して見て参ろうと思います。

 

先ず、朝日日本歴史人物事典に記載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、文章は、伊藤清郎氏の手に成るモノです。

 

また、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

生没年不詳。光貞の子。伊賀氏は奥州好島西庄預所職と飯野八幡別当職を代々領有し、庄園支配を巡って地頭・岩城氏としばしば争論を繰り返した。
 
嘉暦2年(1327年)父・光貞から所領を譲与されて以降、嘉暦、正慶、建武、貞和各年間に渡り年貢などを巡り岩城氏と争う。
 
建武新政府が成立すると、陸奥国将軍府体制の中で、弟・貞長が二番引付衆に入り、盛光は北畠顕家から所領を安堵され、建武2年(1335年)には京都三条東洞院篝役を免除され、また一族を率いて津軽合戦に参加するなど、新政権で活躍。
 
しかし、足利尊氏が新政権に背いてからは尊氏に従い常陸など各地を転戦し、建武4年/延元2年(1337年)に本庄知行地が安堵され、さらに奥州東海道検断職にも補任されている。
 
康永元年/興国3年(1342年)奥州総大将・石塔義房から三迫への出陣を催促されている。
 
その後、奥州管領下では管領府の奉行、使節として行動する様に成る。
 
しかし、伊賀氏は15世紀に入ると領国形成を着実に促進した岩城氏の傘下に属し、飯野八幡宮神主として命脈を保ち、飯野氏と改姓。<参考文献> 佐々木慶一『中世東北の武士団』

 

そして、デジタル版 日本人名辞典+Plusには、以下の様に書かれていました。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

伊賀光宗の玄孫・光貞の子。
 
光宗より代々世襲してきた陸奥国磐城郡(現・福島県)好嶋西荘(よしまにしのしょう)の預所(あずかりどころ)職と同荘飯野八幡宮の神職を相続。
 
嘉暦3年(1328年)、地頭・岩城隆衡の年貢未納を鎌倉幕府に訴える。
 
幕府滅亡後は、北畠顕家の下で津軽の北条氏残党を討ち、その後、北朝側の佐竹氏に従った。通称は三郎、と言う事でした。
 
ところで、先日、ある資料を読んでいましたら『ルイスの転換点』と言うモノに出会いました。
 
過去に出会った記憶が微かにあるのですが・・・曖昧、よって、少し調べて見ました。
 
以下、デジタル大辞泉に掲載されていた内容を転載させて頂きます。
 
尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。
 
社会が工業化する過程で、農村部から都市部へ低賃金の余剰労働力が供給されるが・・・工業化の進展に伴い、やがて余剰が解消され、農業労働力が不足に転じる事。
 
転換点を超えると、賃金の上昇や労働力不足により経済成長が鈍化する。
 
英国の経済学者・アーサー=ルイスが提唱した概念、とありました。
 
では、本日の小職の予定です。
 
今日は、先ず、教育事案に伍します。その後、社協に参ります。
 
尚、夕刻は、社会福祉法人です。