さ~て、先日、長年の懸案?でした横浜市にある『小机城』に初めて登城して来ました。

 

この城の存在を知ったのは、半世紀ほど前の中学生時代。

 

いつか行って見たいと思いながら、長い時を経ての訪問と成りました。

 

感動しました。見事な空堀がしっかり残っている城址・・・本当に感動しました。

 

良くぞ、現世まで残ってくれていたと思った程でした。

 

では、少し、小机城に関して見て参りましょう。

 

以下、『お城めぐりFAN~日本の城に受け継がれる歴史と旅を愉しむ』の公式ホームページに掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

小机城

  • 小机城
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  • 小机城・本丸
  •  
  • 小机城・二の丸
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  • 小机城・空堀
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写真:岡泰行氏

 

<小机城の歴史と見どころ>

 小机城の歴史について。築城の年代は明らかでは無いが・・・この辺りが開けた12世紀以降では無いかと思われる。

その頃は、この辺りは上杉氏の勢力下にあり、西方には同じく上杉氏の支配下の榎下城があった事から、それと関りのある城と推測される。

 

その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが城に立て籠もり、北方の亀之甲山(現在の横浜市港北区新羽町亀の甲橋付近)に帯陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦ったが・・・文明10年(1489年)に攻め落とされた。

 

上杉氏はやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地と成り、小机城は一時廃城と成ったが・・・大永4年(1524年)に北条氏尭の城と成り、笠原越前守信為を城代として再興した。

 

小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後、軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たす様に成る。豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が滅びると、4代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として200名の知行を与えられ、5㎞程離れた台村(現在の横浜市緑区台村町)に住む事に成り、小机城は廃城、その歴史を閉じた。

 

小机城の縄張は、半島形の突出た丘陵の上部を大きく平らに削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築いていると言う事です。

城郭全体を二重の土塁と空堀でぐるりと巡らす縄張で、後北条氏特有の築城法です。

 

東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で、神奈川県内では茅ヶ崎城もその典型だと言う事です。

 

城内には、本丸跡と二の丸跡と言う看板が立っていますが・・・城址の調査等の実績が少ないため、本当に本丸または二の丸だったのかは、まだ断定出来ないと言う事です。

 

本丸の防備と敵の攻撃に対抗するための空堀は、小机城では堀上部の幅が12.7m、堀底の幅が5.0m、深さが12.0mと成っています。(文:いわお)

現地で得られる資料

『小机城址ガイドマップ』が、平成30年(2018年)2月に制作された。港北区役所、城郷小机地区センター、新横浜駅の観光案内所でGETできるぞ。

 

小机城の関連史跡

太田道灌が本陣を構えた城山、亀甲山が港北区新羽町、小机城の向かいにある。資生堂の白い建物があるが・・・遺構は無いと見て良いかも。また、小机城の支城である茅ヶ崎城と荏田城がありますが・・・荏田城は私有地で立入禁止と成っています。
[又兵衛 (平成12(2000).05.01)]
[ナベ@日本のお城 (平成23(2011).03.28)]

近くに笠原氏の菩提寺があります。
[けん (平成11(1999).09.13)]

 

(以下、略)

 

と言う事です。本当に魅力的な城址でした。

 

ところで、先日、ある文章を読んでいましたら『賞玩(しょうがん)』と言う言葉に出会いました。

 

ん~?、と言う事で、少し調べて見ました。

 

以下、小学館のデジタル大辞泉に記載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

① そのものの良さを楽しむ事。珍重する事。

② 味の良さを楽しむ事。賞味する事。

③ 尊重する事。

 

と言う事でした。ただ、良く調べますと、過去のこのブログで『賞翫』と言う言葉は登場して居りました。

 

では、本日の小職の予定です。

 

今日は、終日、教育事案に伍します。