さ~て、先日、ある資料を読んでいましたら『根津小次郎』と人物に出会いました。

 

興味を持ちましたので、少し調べて見ました。

 

先ず、デジタル版 日本人名大辞典+Plus に掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

ただ、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

南北朝時代の武士。上杉憲顕(のりあき)の臣。

 

観応3年(北朝)・正平7年(南朝)・・・(1352年)、宗良親王を奉じた憲顕に従い、新田義宗らと共に鎌倉の足利尊氏を攻めた、とありました。

 

また、『上野(こうずけ)の戦国史~箕輪城と上野一揆衆~』の公式ホームページに掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

根津氏

  • 根津氏 Wiki 最終更新 平成27年(2015年)12月5日より
  • 根津氏(禰津氏・祢津氏とも、読みは「ねづし」・「ねつし」)とは、信濃国小県郡禰津(現・長野県東御市祢津周辺)を本貫地とした武家の氏族。 「禰津」の記載が一番多いが・・・現代では「根津」「祢津」の苗字が一番多い。便宜上、以降では根津を使用する。
  • 出自・・・信濃国の名族滋野氏の嫡流滋野重道の二男である直道が根津(ねつ)を名乗ったのが始まりとされ、滋野氏を出自とする諸族の中でも海野氏・望月氏と並び、滋野三家と呼ばれ平安末期より信濃国小県郡から上野国吾妻郡一帯まで広大な勢力を誇った。 代々の婚姻関係を通じて諏訪氏との結びつきも強く、諏訪神党にも含まれる。 真田氏は根津氏の支族であるとも言われている。 また、鷹をつかう武勇の一族であった事でも知られている。
  • 概要・・・滋野氏は、小県郡に起こり代々信濃御牧の牧監として力を蓄え、佐久郡や上野国にも勢力を伸張していった。 その滋野氏一族である根津氏は、平安期より信濃国十六御牧の中の中心地である楢原・新張牧を支配し、勢力を蓄えていったものと思われる。 居館は祢津古御館、宮入御館。 居城は祢津城(上の城、下の城)、矢立城その他。 菩提寺は定津院(文安6年(宝徳元年、1449年)開創)。
  • 代々当主は「小次郎」や「神平」を名乗ったとされる。これは滋野三家の中で嫡流とされる海野氏が、代々「小太郎」と名乗ったものに因み、次男家である根津氏が「小次郎」と名乗ったものであると思われる。因みに三男家である望月氏は代々「三郎」を名乗っている。 また、滋野三家は非常に緊密な一体感を持って居り、時代の流れの中でも氏族が一族に分かれ戦う事が非常に少なかった事でも知られている。
  • 平安・鎌倉・南北朝期・・・根津氏は滋野三家の中でも特に武勇に優れたものが多く、各年代軍記物語等での記載がある。 平安期には、根津神平道直が平安時代末期の保元の乱・平治の乱で源義朝に従い活躍した記載があり、源平合戦では、源義仲の挙兵に際し、香坂(高坂)氏の祖となった根津貞行、根津信貞が随伴し横田河原の戦いに参戦した。また、文治6年(建久元年、1190年)の源頼朝上洛の際には二代当主貞直の嫡子と思われる根津神平宗直が活躍した事や承久の乱にも根津三郎が参陣した事などが吾妻鏡などにも記載されている。また、中先代の乱では北条時行を擁して諏訪氏、海野氏、望月氏と共に挙兵した。 また、南北朝時代では『太平記』に「武勇すぐれたるもの」として「根津小次郎」(祢津宗貞)の名が見え、顔に刀傷を付け大胆にも敵将である足利尊氏の首を狙い、本陣内に突入し「あわや」と言う豪快な逸話が描かれ、宗貞は信濃国における南朝方かつ足利直義派の主将であった諏訪直頼の代官と成り、別名「幸坂の宮」(庇護者と成った根津氏支族である香坂氏に由来)と呼ばれ、信濃南朝方の盟主として活躍していた信濃宮宗良親王を副将として支持し、武蔵野合戦(小手指原の戦いや笛吹峠の戦い)、桔梗ヶ原の戦いなどで活躍(但し結果は相手の尊氏方が勝利)した事が確認出来る。
  • また、根津家当主は合戦の折、代々の家宝である橋返りの太刀を引き抜き、常に先陣を切って戦ったと伝えられている。 延元3年/暦応元年(1338年)には南朝方である新田義貞に属し、祢津助頼(祢津掃部助)や祢津時直(祢津越中守)らの活躍が見られる。 また、観応元年(1350年)に起こった観応の擾乱では、祢津行貞(祢津小次郎)、祢津宗直(祢津孫次郎)が前述の宗貞と同じく足利直義方に与して戦い、その後に足利義詮に出仕している事が記載されている。
  • 室町期・・・根津氏は海野氏望月氏などの他の滋野一族とともに、宗良親王を奉じ終始南朝方として各地を転戦したが・・・徐々に幕府方である村上氏等の勢力に圧迫されはじめ、鎌倉期より東信濃から上野西部にわたる広大な領地も徐々に縮小されて行ったものと思われる。 応永7年(1400年)の室町時代の信濃守護小笠原長秀と信濃国人衆が争った大塔合戦では、大文字一揆衆の大将に根津越後守遠光の名があり、大手門攻撃側大将として桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾等の一族諸氏300騎を率いて奮戦した事が大塔物語に記載されている。 この時の諸将の名から当時の根津氏の勢力は、真田、矢沢、横尾、曲尾方面だけで無く、上田平の浦野川方面には支族である浦野氏や岡村氏を代官として送っている事も確認されている。室町期当時の根津氏は小県郡の主要部分にわたり影響を及ぼしていた事が分かり、当時は事実上滋野三家の中で中核を担っていたものと思われる。
  • 根津遠光については、その他にも永享12年(1440年)の結城合戦でも実田(真田氏か?)源太、源五等の配下と共に幕府方として奮戦した事が記載されている。また、永享8年(1436年)信濃守護小笠原政康と抗争した事が見られ、大塔合戦とは逆に支城である芝生田、別府城を落城させられている記載があり、年代を考慮しても係争していたのは当時の当主根津遠光であろうと思われる。 その後は、東信濃の覇権をかけて村上氏と争った海野大乱等で他の滋野一族とともに村上氏等に敗れ、徐々に村上氏に圧迫されていった。
  • 戦国期・・・戦国時代には(当主根津元直の頃)、武田信虎による小県郡侵攻に遭い、その傘下と成る。元直死後は次男の根津政直が継いだ。政直は村上義清と戦って敗北し、信濃国から逃亡した。天文14年(1545年)に新たな甲斐武田氏の当主と成った武田晴信(信玄)の家臣と成り、原隼人正の配下の信州先方衆として上野国方面の武田氏の勢力拡大に同族真田氏同様貢献している。また政直は妹を武田晴信の側室に送り込み、武田氏との関係を深めた。この根津御寮人は後に武田信清の生母となっている。 そして天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍は壊滅し、政直の嫡男・根津月直も討死した。尚、政直自身(根津松鴎軒)は天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐の際は信濃国北部の飯山城に飯山城代として居り、上杉景勝への援軍要請に当たったため、難を逃れている。
  • 上野豊岡藩立藩と断絶・・・武田家滅亡後の天正11年(1583年)、松鴎軒政直は本家の根津昌綱と行動を別にして徳川家に臣従した。また、徳川家家臣になると「禰津」から「根津」に名字を変えている。家臣となった後は駿河国等に所領を得るが、徳川家康の関東移封後、上野国豊岡に5000石の所領を得る。松鴎軒政直の家督は弟の子・根津信光が継ぎ、上野国豊岡は松鴎軒政直の甥・根津信政が継いでいる。慶長7年(1602年)に5000石の加増を受け10000石の大名として認められ、上野豊岡藩を立藩した。 古来より大族であり平安初期より続く滋野氏の滋野三家嫡流中、大名として残ったのは根津氏のみであった。
  • 根津信政の嫡男・根津政次には男子が無かったため、信政次男の根津吉直がその跡を継いだ。しかし、寛永3年(1626年)にその吉直が若くして死去。三代で無嗣断絶となった。
  • 一方の根津本家である根津昌綱は、根津支族であり緊密な関係であった真田氏と小県郡をめぐり争い、徳川氏・北条氏・上杉氏と主君を転々と替え、その系統は最終的には真田家の禄高三千五百石で家臣と成り、子孫は松代藩の家老や目付と成った。(松代藩史では「家中もっとも覚えあり」と記載されている。)そして支藩の沼田藩でも家老を務めた。

と言う事でした。これも歴史ですね。

 

ところで、先日、新聞を読んでいましたら『天白(てんぱく)』姓の方が登場。

 

由来に興味を持ちましたので、少し調べて見ました。

 

以下、名字由来netに掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

愛知県岡崎市が起源のひとつ。愛知県や三重県志摩市、伊勢市などに多い、とありました。

 

では、本日の小職の予定です。

 

今日は、終日、沈思黙考します。