さ~て、先日、ある資料を読んでいましたら、鈴鹿川に橋を架けた偉人『前川定五郎』と言う人物に出会いました。

 

その資料から事跡の概要は理解出来たのですが・・・さらに、調べて見ました。

 

以下、伊勢新聞(令和2年(2020年)2月9日配信)に記載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

<まる見えリポート>

鈴鹿・地域ボランティアの先駆者 前川定五郎の功績知って

【前川定五郎資料室に展示された貴重な資料の数々について説明する前川委員長(左)と薮田副委員長
                            =鈴鹿市岡田1丁目の市立牧田小学校で】

三重県鈴鹿市甲斐町出身で、私財をなげうって鈴鹿川に橋を架けた地域ボランティアの先駆者、前川定五郎(天保3年(1832年)―大正6年(1917年))。

 

「定五郎の功績をもっと多くの人に知ってもらいたい」と、顕彰事業に取り組む地元の牧田地区地域づくり協議会がこの程、本年度同市まちづくり応援補助金を活用し、持ち出し用の資料パネルなどを作製。新たなPR活動を始めた。

 

定五郎は「人の喜びはわが喜び」を信念に、橋の無かった鈴鹿川を通行人が安全に渡れる様、橋を架ける事に尽力。

 

3回の架け替えにより明治11年(1878年)、ようやく本格的な橋が完成した。

 

橋は定五郎の功績を称え「定五郎橋」と名付けられた。

 

現在の「定五郎橋」は100m上流に移動した五代目。人名がついた一級河川の橋は国内でも珍しいと言う。

 

市では小学3、4年生の社会科副読本「のびゆく鈴鹿」で、歌人で国文学者の佐佐木信綱(石薬師町)、蘭学の発展に貢献した大黒屋光太夫(若松)と共に、定五郎の功績を紹介している。

 

平成4年(1992年)、市は同市立牧田小学校(同市岡田1丁目)の空き教室を利用し、前川定五郎資料室を開室した。

 

寄付の記録を残した寄附帳や、水の流れを変えたり橋を守るために使用した木製鋤簾など、当時の貴重な資料77点を展示しているが・・・児童への不審者対策の観点から公開が土日、祝日のみ

 

※ 見学希望者は3日前までに市への予約が必要―と気軽に閲覧しにくい環境にあるため、昨年度の来場者は230人に留まる。佐佐木信綱記念館は4745人、大黒屋光太夫記念館は3111人の来場者があり、比較しても認知度はまだまだ低いのが現状だ。

 

資料室の独立について、担当の市文化スポーツ部文化財課新田剛・課長は「定五郎、光太夫、信綱の3人が『市の3大偉人』と言う認識は無い」とした上で、「生涯学習活動で可能な限りバックアップはしていくが、現状では今のやり方を継続して行く」との考えを示すと共に、「古文書などは保護の対象になりやすいが、明治から近代、昭和にかけての微妙な時期の資料をどう保存して行くかが今後の課題」と話す。

 

同地区では同資料室の開館と共に、定五郎の顕彰活動に取り組んできた。

 

平成22年(2010年)に同協議会が設立したのを切っ掛けに同26年(2014年)、前川定五郎翁顕彰事業委員会と成り、これまでにDVDアニメ「定五郎物語」の制作や、そのDVDを視聴した小4年児童を対象にした作文コンクール、地域限定純米吟醸酒「前川定五郎物語」造りなどに取り組んで来た。

 

さらなる認知度向上に向け、今回作製したパネルなどを展示し、先月20日から同市役所で初開催した定五郎資料室移動展では、約1週間で約420人が来場。興味を示す来場者らの反応に、確かな手応えを感じた。

 

同協議会の小川秀雄・事務局長(76)=同市弓削町=は「牧田小に資料室がある事を知らない人がほとんどだったが・・・亀山や四日市からも見に来てくれた人がいた。『昔の橋を渡った』『古い橋では映画の撮影があった』など、懐かしそうに思い出を語る人もいて、見てもらえる場所でPRして行く事が大事だと改めて実感した」と話す。

 

現在のところ、語り部によるDVDの放映や紙芝居など1時間程度の出前講座や、資料パネルを貸し出す持ち出し展示を計画している。

 

顕彰事業委員会の前川達次委員長(70)=同市甲斐町=は「これからの地域の担い手と成る子供達を中心に、定五郎の事を知ってもらいたい」と話し、「要望があればどこでも行く」と意気込みを見せる。

 

薮田雅也・副委員長(65)=同市甲斐町=は「まずは語り部を増やして行きたい」と話した。

 

と言う事でした。地元の偉人、子供達にも知ってもらいたいですね。

 

ところで、先日、新聞を読んでいましたら『四十物(おいもの)』姓の方が登場。

 

由来に興味を持ちましたので、少し調べて見ました。

 

以下、『名字由来net』に掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

越中富山(現・富山県)の四十物地名他が起源である。

 

近年、富山県や北海道に多数みられる。「四十」とは始終の当て字であり「いつでも」の意味を表す、とありました。

 

では、本日の小職の予定です。

 

今日は、先ず、教育事案に伍します。その後、社協に参ります。

 

ただ、夕刻は、社会福祉法人です。