さ~て、今日は、義民として有名な佐倉惣五郎(木内惣五郎)について見て参ろうと思います。

 

小職、世間に一般的に流布している話しは知っている積りですが・・・。

 

先ず、日本伝承大鑑に掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

宗吾霊堂(そうごれいどう)

正式名称は鳴鐘山東勝寺。桓武天皇の命を受けて坂上田村麻呂が開基したと言う伝承が残る古刹である。

しかし、今では義民・佐倉惣五郎の祀る場所として知られている。

 

佐倉惣五郎は、嘉永4年(1851年)に上演された歌舞伎『東山桜荘子』によって全国的な知名度を持つに至り、明治成ると『佐倉義民伝』と銘打って役名を実名で上演。

 

福沢諭吉などの賞賛を受け、自由民権運動の高まりにも影響があったともされる。

 

江戸時代に起こった数々の農民蜂起によって誕生した“義民”の中の代表格と言っても過言では無い。

 

佐倉惣五郎は、本名を木内惣五郎。印旛郡公津村の名主であった。

 

当時の公津村は佐倉藩に属していたが・・・度重なる凶作のために周辺の村は衰退、多くの村人は年貢が払えず逃散する者、果ては餓死する者すらあった。

 

しかし、藩は追い打ちを掛ける様に様々な税を課して生活を圧迫する。

 

そこで惣五郎らの名主は藩に訴え出るが・・・にべもなく却下。

 

そこで江戸に上って、老中・久世大和守に訴状を出す。

 

一旦は受理されたものの、他藩への干渉を理由に訴えは退けられた。

 

かくなる上は将軍への直訴しかないと考えた惣五郎は単身、寛永寺に赴く将軍・徳川家綱に籠訴し、無事に受理される。

 

承応元年(1652年)の事である。

 

窮状を慮った家綱は、佐倉藩藩主である堀田正信に命じて税の免除を行わせたのであった。

 

将軍から失政を咎められたに等しい正信は、翌年、年貢の免除を命ずると共に、惣五郎への処分も行った。

 

妻は惣五郎と共に磔、女児を含む4人の子供は全員打ち首と言うものであった。

 

しかも惣五郎と妻は、目の前で4人の子供が斬首されるのを見届けさせてから磔されたのである。

 

直訴に及ぶ直前に妻を離縁し、子を勘当した惣五郎に取っては無念としか言い様の無い処罰であった。

 

それから間もなくの万治3年(1660年)、堀田正信は突如、幕政批判の書をしたため、江戸から無断で佐倉へ帰ると言う前代未聞の不祥事を起こして仕舞う。

 

その真意は今なお不明であるが・・・協議の結果、正信は“狂気の作法”として所領没収の上に、実弟に預けられる。

 

そして無断で配所を抜け出して京都へ赴くなどの奇行をおこなった後、延宝8年(1680年)に将軍・家綱死去の報に接し、鋏で喉を突いて自害して仕舞う。

 

この一連の騒動を人々は「惣五郎の祟り」であると噂したのである。(芝居では、夜な夜な正信の寝所に、磔されたままの姿の惣五郎の怨霊が現れると言う場面が設定されている)

 

堀田家が去って後の佐倉藩は、頻繁に領地替えが行われた。

 

そして、延享3年(1746年)、佐倉藩に入封してきたのが堀田正亮であった。

 

正信の実弟の家系ではあるが・・・堀田家が再び佐倉藩を所領としたのである。

 

正亮は、惣五郎の百回忌にあたる宝暦2年(1752年)に「宗吾道閑居士」の法号を贈る事で、祖先の非を認め、その遺徳を公にしたのである。

 

その後も、各時代の藩主が石塔を寄進したり、惣五郎の子孫とされる家に供養田を与えるなどの措置を行っている。

 

そのためなのか?それまで頻繁に領主の代わった佐倉藩であったが・・・幕末まで堀田家が代々藩主を勤め上げる事と成ったのである。

 

惣五郎については、一揆を蜂起したり、将軍へ訴状を提出したりと言う行為に関する史料が全く残されて居らず、その存在自体が創作ではないかの疑いを持たれた時期があった。

 

しかし、戦後になって、児玉幸多による研究で実在がようやく確認されている。

 

現在、霊堂のある境内には、惣五郎の御廟がある。

 

この墓のある場所で処刑が行われたとされ、多くの者が参詣に訪れている。

 

佐倉惣五郎とは、公津村の名主・木内惣五郎の事績に重ね合わせて生み出された、時代の英雄と言うべきなのかも知れない。

 

 

<用語解説>
◆堀田正信
寛永8年(1631年)-延宝8年(1680年)。堀田正盛の長男。父は春日局を後ろ盾に徳川家光の側近として活躍し、家光死後に殉死。正信が佐倉藩を継いだ翌年に佐倉惣五郎事件が起こっている。
領地没収から死までは上に記した通りであるが・・・長男の正休は、父の奇行に連座して閉門となる時期もあった。しかし、父の死後に幕臣として取り立てられ、最終的に近江宮川藩1万石の領主となる。

 

◆堀田正亮
正徳2年(1712年)-宝暦11年(1761年)。堀田正信の弟の正俊(春日局の養子、大老、後に江戸城内にて刺殺される)の家系。佐倉入封直後に口ノ明神を将門山に建立し、佐倉惣五郎を祀っている。

 

◆児玉幸多
明治42年(1909年)-平成19年(2007年)。近世の農村・交通史の研究で有名。学習院大学学長、江戸東京博物館初代館長を歴任。佐倉惣五郎についての研究は、昭和33年(1958年)の『佐倉惣五郎』に詳しい。

 

アクセス:千葉県成田市宗吾

 

1.義民の世界 佐倉惣五郎伝説

東山桜荘子嘉永4年(1851年、歌舞伎に新しいヒーローが生まれた。
「東山桜荘子」(ひがしやまさくらのそうし)の主人公・浅倉当吾こと佐倉惣五郎がその人である。
百姓一揆がテーマであるこの作品は、関係者の予想を遥かに超えるヒットと成り、またたく間に日本中に広まった。

東山桜荘子各地の農村では、この物語を受け入れる素地が出来ていたのである。
幕府が作られてから250年、数多くの百姓一揆が発生し、義民を顕彰する活動も18世紀後半から活発に成っていった。
明治以降も惣五郎歌舞伎は頻繁に上演され、佐倉義民伝として定着した。

 

東山桜荘子また講談・浪花節などでも積極的に取りあげられた。
福沢諭吉や自由民権活動家は、彼らの主張の先駆者として惣五郎を取り上げた。
また昭和恐慌や戦後改革の時期などに、惣五郎の物語は新たな解釈を伴いながら思い起こされた。
西暦2000年の今、惣五郎物語は何を語ってくれるのだろうか。

図版:東山桜荘子 国立歴史民俗博物館蔵

 

佐倉藩と"惣五郎一揆"
惣五郎一揆を証明しうる史料は無い。
彼が行ったとされる将軍直訴の年代も、いくつかの説がある。
ただ公津台方(こうづだいかた)村に惣五郎と言う百姓がいた事は、地押(じおし)帳、名寄(なよせ)帳の記載から確かである。
この惣五郎が藩と公事(くじ:訴訟)して破れ、恨みを残して処刑された事、その惣五郎の霊が祟りを起こし、堀田氏を滅ぼした事があり、人々は彼の霊を鎮めるために将門山(まさかどやま)に祀ったと言う話が、公津村を中心に佐倉領内の人々に伝えられていった。

惣五郎物語の成立
宝暦2年(1752年)は惣五郎の百周忌にあたる。
延享3年(1746年)、山形から入封した堀田正亮(正信の弟正俊の家系)は、惣五郎を顕彰するために口の明神を遷宮し、涼風道閑居士と謚した。


藩が認めた惣五郎の話は、18世紀後半に一挙に体裁を整えた。
『地蔵堂通夜物語』・『堀田騒動記』と言う惣五郎物語が完成した。
この物語は、苛政→門訴(もんそ)→老中駕籠(かご)訴→将軍直訴→処刑→怨霊と言う筋を持ち、化政期から幕末に掛けて盛んに筆写された。

 

歌舞伎の惣五郎
東山桜荘子「東山桜荘子」は嘉永(1850年代)の大ヒット後、幕末から昭和初年まで頻繁に上演された。
外題は改作にともない「花雲佐倉曙(はなぐもりさくらのあけぼの)」、「桜荘子後日文談」などと変化するが、明治30年代頃から、「佐倉義民伝」として定着する。
見せ場は宗吾と叔父光然の祟りと、歌舞伎で挿入された甚兵衛渡し・子別れと言う宗吾の苦悩、甚兵衛の義心である。
嘉永のヒットの要因は祟りの場であったが・・・明治以降次第に減少し、甚兵衛渡しと子別れが物語の中心となる。
図版:東山桜荘子 国立歴史民俗博物館蔵

 

ひろがる惣五郎
歌舞伎の成功により講談や浪花節などでも惣五郎物語が取りあげられ、各地で物語が写本された。
幕末から明治初年の一揆では、その組織化に惣五郎物語が取り入れられることもあった。
自由民権家は惣五郎を民権の先駆者としてとらえ、その偉業を受け継ごうとした。
惣五郎物語は数多く出版され、日本の代表的な物語として外国語に翻訳されたりした。
東勝寺は宗吾霊堂として多くの信者を集め、全国に惣五郎を祀る神社などが建立された。
(保坂智 企画展示「地鳴り山鳴り-民衆のたたかい三百年-」図録より転載)
 

と言う事でした。考えさせられますね。

ところで、先日、ある文章を読んでいましたら上田敏の『海潮音』を目にしました。

中中学生以来の出会いでした。

では、本日の小職の予定です。

今日は、先ず、教育事案に伍します。その後、社協に参ります。

また、夕刻は、社会福祉法人です。

そして、今日は、八十八夜・・・茶摘みの季節ですね。