さ~て、先の能登半島地震で、大きな被害を受けた石川県輪島市に歴史ある建屋がある事を偶然な事から知りました。

 

それは、『重要文化財 時國家』。

 

以下、その公式ホームページに掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

【令和2年(2020年)12月5日】  
令和2年(2020年)11月29日をもちまして公開を休止致しました。
60年の長きに渡り多くの方々のご来館又当家にご支援、御尽力を頂きました方々に心より感謝致して居ります。
誠に有難うございました。

重要文化財 時國家  時國 信弘

 


「一門にあらざらん者は皆、人非人なるべし」
『平家にあらずんば人にあらず』(現代語訳)

平安末期、平清盛によって栄華を極めた平家一門。
平家物語でも有名な上記の言葉をもって一門の隆盛を称えたのが平大納言時忠です。
壇ノ浦で平家一門が滅亡した後、この能登の地に配流され、生涯を終えました。
当家は、平大納言時忠から数えて二十四代目。

当邸宅は江戸時代初期に三代50年かけて建築された、茅葺入母屋造りによる木造平屋建てで、
古い様式を今に残し、 昭和38年(1963年)に国の重要文化財に指定されました。

 

平安時代末期、平清盛によって栄華を極めた平家は、文治元年(1185年)壇ノ浦の合戦で源義経率いる源氏軍勢に破れ、この時、平家団結の象徴であられた安徳天皇は御歳八歳で二位の尼に抱かれ御入水されました。
平家方生存者の殆どは、鎌倉幕府の厳しい追求の中、離散の生活を始めました。
生存者中最高重臣であった平大納言時忠は、源義経との約束により能登の地へ配流され、文治5年(1189年)2月24日この地で没しました。

当家の初代は文治元年(1185年)、能登に配流された平大納言時忠です。
時忠の子、時国の代より当地で農耕を営み、時国村を成しました。
時を経て天正9年(1582年)、能登は加賀前田藩領に、その後、慶長11年(1606年)には時国村の一部が越中土方領となり、時国家は二重支配を受ける事と成りました。

寛永11年(1634年)、十三代藤佐衛門時保は時国家を二家に分立し、当人は加賀藩領に居を定めました。当家はその加賀藩領の時国家であります。江戸時代を通して、山廻役、御塩懸相見役、御塩方吟味人役など藩の役職を代々受け継ぐと共に、農業、塩業、廻船業などを営んでいました。
 

 

 

  【 家 譜 】                  
                   
      高見王 (八代略) 清盛  
桓武天皇 葛原親王 平高棟 (八代略) 贈左大臣時信
                   
平大納言時忠 時国 左京亮時晴 (八代略) 四郎左衛門時則
                   
藤佐衛門時保(加賀藩家臣百姓) 藤左衛門時広 (四代略) 藤左衛門時満
                   
  藤四郎重時 藤左衛門助時 良作 信弘(二十四代)  
                     

と言う事でした。素晴らしい歴史ですね。

 

尚、今回の震災で、上時国家住宅は、1階部分が圧し潰され、茅葺屋根が地面に接している状態に成っている由。

 

改修を願いたいですね。

 

ところで、先日、新聞を読んでいましたら『乍(ながら)』姓の方が登場。

 

由来に興味を持ちましたので、少し調べて見ました。

 

以下、『名字由来net』に記載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

肥後(現・熊本県)発祥とも言われ、伝統的な名字である。近年、熊本県八代市、埼玉県さいたま市などに見られる、とありました。

 

では、本日の小職の予定です。

 

今日は、多くの時間、NPO法人事案(収益法人事案を含む)に伍します。

 

ただ、朝夕は、社会福祉法人に参ります。