さ~て、先日、ある資料を読んでいましたら『志波六郎助』と言う人物に出会いました。

 

その資料から、概要は理解出来たのですが・・・さらに、少し調べて見ました。

 

以下、『WEB人名辞典~人名データベース』の公式ホームページに掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

志波六郎助 – 明治・大正時代の社会教育家

明治8年(1875年)の青年矯風会組織

明治8年の青年矯風会組織

 

明治8年(1875年)、志波六郎助は、静岡県士族青年を集めて青年矯風会と言う社会教育団体を組織しました。

 

矯風会の目的は、「青年等をして、孝悌忠信の道を守らしめ、かつ実業に精進せしめ、国家の重任を負うべき人材を養成する事」とされました。

 

矯風会では、講演会や討論会、図書会などが開催され、青年たちが社会問題や時事問題について学び、意見を交換しました。

 

また、矯風会は、青年たちが社会奉仕活動に取り組む事も奨励しました。

 

矯風会の活動は、当時の社会に大きな影響を与え、多くの青年たちが矯風会に参加しました。

 

矯風会は、後の青年団運動の発展に大きな役割を果たしました。

 

矯風会は、志波六郎助が生涯を掛けて取り組んだ社会教育事業の代表的なもののひとつです。

 

矯風会は、明治・大正時代の青年教育に大きな貢献をしました。

毎朝のほら貝吹きで早起きを奨励

毎朝のほら貝吹きで早起きを奨励

 

志波六郎助は、明治・大正時代の社会教育家である。

 

彼は、早起きを奨励するために、毎朝ほら貝を吹いて人々を起こしていた。

 

志波六郎助は、嘉永4年(1851年)に、現在の愛媛県松山市に生まれた。

 

彼は、幼い頃から勉強熱心で、15歳の時に上京して、東京外国語学校(現・東京外国語大学)に入学した。

 

志波六郎助は、東京外国語学校を卒業した後、すぐに英語教師として働き始めた。

 

しかし、彼はすぐに教育に限界を感じ、社会教育の重要性に気づいた。

 

そこで、彼は、明治16年(1883年)に、現在の愛媛県今治市に「今治教育社」を設立した。

 

「今治教育社」は、社会教育機関として、講演会や読書会、夜間学校などを開催していた。

 

また、志波六郎助は、毎朝ほら貝を吹いて人々を起こしていた。

 

志波六郎助の毎朝のほら貝吹きは、人々に早起きの習慣をつけさせるために始めたものだった。

 

彼は、早起きは健康に良いだけで無く、生産性を高めるためにも重要であると考えていた。

 

志波六郎助の毎朝のほら貝吹きは、人々に大きな影響を与えた。

 

多くの人々が、志波六郎助のほら貝の音を聞いて早起きする様に成った。

 

志波六郎助は、昭和5年(1930年)に79歳で亡くなった。

 

しかし、彼の早起きを奨励する精神は、今もなお受け継がれている。

郷里の植林にも貢献

郷里の植林にも貢献

 

志波六郎助は、郷里の植林にも貢献しました。

 

明治41年(1908年)頃、志波六郎助は郷里の御所町(現御所市)が荒れ野原で、水不足にも悩まされている事を知りました。

 

志波は、水不足を解消するためには植林が必要であると痛感し、植林活動を始めました。

 

志波は、地元の人々に植林の大切さを説き、植林活動の参加を呼び掛けました。

 

志波の呼び掛けに応じ、地元の人々は続々と植林活動に参加しました。

 

志波は、郷里の荒れ野原に約10万本の苗木を植えました。 志波の植林活動は、郷里を緑豊かな土地に変えました。

 

また、志波の植林活動は、水不足を解消し、郷里の人々の生活を豊かにしました。 

 

志波六郎助は、郷里に緑豊かな大地を残した偉大な社会教育家です。

 

と言う事でした。ひとつの教育の視点を示された方ですね。

 

ところで、先日、新聞を読んでいましたら『蠏(かに)』姓の方が登場。

 

由来に興味を持ちましたので、少し調べて見ました。

 

以下、日本姓氏語源辞典に掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

可児姓あり。埼玉県川越市南通町に分布あり。埼玉県行田市本丸の忍城に安土桃山時代にあった、と。

 

では、本日の小職の予定です。

 

今日は、多くの時間、NPO法人事案(収益法人事案を含む)に伍します。

 

ただ、朝夕は、社会福祉法人に参ります。