さ~て、先日、ある資料を読んでいましたら、久し振りに『ヒッタイト人』と言う表現に出会いました。

 

世界史で目にしたな、と思った次第ですが・・・どの様な?、と思いましたので、小職の意も込めて、少し調べて見ました。

 

以下、『世界史の窓』の公式ホームページに掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

ヒッタイト/ヒッタイト王国

ヒッタイト人はインド=ヨーロッパ語族に属し、前17世紀中頃、小アジア中心に王国を建設し、一時はメソポタミアに進出し帝国の支配を拡げた。都はハッシュシャ。西アジアで最初に鉄器を使用したとされる。

 

エジプトと激しく争った後、前1200年頃、海の民の侵攻によって滅亡した。

ヒッタイト地図
ヒッタイトの位置

 

西アジアに鉄器をもたらす

 ヒッタイト人は、インド=ヨーロッパ語族に属する一民族で、前1900年頃、西アジアに起こった広範囲な民族移動の動きのひとつとして東方から小アジア(アナトリア=現在のトルコ)に移住し、既にその地で始まっていた鉄器製造技術を身に付け、有力に成ったと考えられている。

 

ヒッタイト人はもとはハッティともいわれ、前1650~1200年頃に掛けてその地を支配し、さらに西アジアのシリアやメソポタミア地方にも進出した。


ヒッタイトの登場は、それまでのオリエントの歴史に、大きな 変動をもたらした。

 

前16世紀から前15世紀に掛けて、ヒッタイトの他、カッシートやミタンニ、アッシリアなどが登場し、さらにエジプトには新王国が強大と成り、これらの国々の間で国際関係が展開された。

 

その事実はエジプトで発見されたアマルナ文書やヒッタイトの都で発見されたボアズキョイ文書などの楔形文字を記した多数の粘土版に記録されている。

 

都ハットゥシャ

 20世紀の初頭、トルコのボアズキョイ(ボガズキョイ)で発掘された遺跡から、ヒッタイト王国の歴史を物語る楔形文字の粘土板が多数発見され、この地がヒッタイトの都ハットゥシャ(ハットゥシャシュとも言う)であった事が判明した。

 

Episode ヒッタイト王国の発見

 ヒッタイトと言う民族は、旧約聖書にヘテ人として現れるが・・・いったいどのあたりにいた、どのような民族で、その国はどんな国だったのか、全く忘れ去られていた。

 

19世紀にエジプトのテル=エル=アマルナから発見された粘土板文書(アマルナ文書)の中にハッティ国とエジプト新王国の間に交わされた書簡が見付かり、朧気ながらその存在が浮かび上がった。


そして、1905年(明治38年)から翌年に掛けて、ドイツのヴィンクラーと言う学者がトルコの首都アンカラの東のボガズキョイ村の遺跡で多数の粘土板を発見した。

 

その中の一枚にアッカド語で書かれた粘土板を読み始めた彼は、一瞬、我を忘れた。

 

粘土板文書はエジプト新王国のラメセス2世からヒッタイト王のハットゥシリ3世にあてた書簡で、カデシュの戦いの後に両国で交わされた平和条約に関するものだった。

 

ヴィンクラーはその条約文が、エジプトのカルナック神殿の壁面に刻まれているものとほぼ同一である事を発見したのである。

 

こうしてこの遺跡がヒッタイトの都、ハットゥシャシュである事が分かった。

<大村幸弘『鉄を生み出した帝国』1981 NHKブックス p.3-5>


注意  ヒッタイト王国はインド=ヨーロッパ語族と考えられる民族系統で、それまでのセム語系が多かった西アジアでは異質な文化を有していた。その最も異質な文化が製鉄技術であった。この国があったアナトリア(小アジア)は現在のトルコ共和国であるが・・・主要な民族はトルコ系民族であり、ヒッタイト人の直接の子孫では無い。小アジアは常に活発な民族移動が行われているため、日本的な感覚では捉える事は出来無い。以下、最近までに明らかになってきたヒッタイト王国の歴史を纏めると次の様に成る。<主として小林登志子『古代オリエント史』2022 中公新書 によって構成>

 

ヒッタイトの出現

 ヒッタイト人はおそらくカフカス山脈付近から前2000年紀にアナトリア高原に移住したと思われる(確定的ではない)。

 

前1680年頃にアナトリア中部に小王国を建設、次第に周辺の小王国を統合し、前17世紀後半あるいは前16世紀中頃、ハットゥシリ1世はハットゥシャ(ハットゥシャシュとも言う現在のボアズキョイ)を首都とし、勢力をシリア方面に伸ばした。


次のムルシリ1世は、前1595年にメソポタミアに遠征してバビロンを攻撃、バビロン第1王朝を滅ぼした。

 

ただし、この後にバビロニアから撤退、バビロンにはカッシートが入った。

 

ヒッタイトでは『ヒッタイト法典』など法体系が整備されたが・・・その後はミタンニに押されて一時衰えた。

 

ここまでを古ヒッタイトとも言う。

 

ヒッタイトの全盛期

 前14世紀中頃、ヒッタイト王国のシュッピルリウマ1世は戦車の利用などの軍備強化を図り、小アジア各地に遠征して領土を拡げ、さらに再びシリア方面に進出した。

 

シュッピルリウマ1世の強敵はユーフラテス上流からシリアにかけて勢力を誇ったミタンニであったが・・・慎重にミタンニ周辺の小国を従えてた上で、前14世紀中頃、ミタンニを急襲し、属国にした。

 

このころアナトリアとシリアの支配を恒久化したシュッピルリウマ1世は当時のオリエント国際社会で最強の王と見られ、このころをヒッタイト新王国、あるいはヒッタイト帝国とも称する。

 

ヒッタイトの鉄器

 ヒッタイトはオリエント世界で初めて鉄器を使用した人々と考えられている。

 

すでに前1400年頃、木炭を使って鉄を鍛え、炭素を充分に含んだ鋼(はがね)を造る滲炭法を知っていた様で、鋼を武器や道具に利用すると言う最先端の技術を身についていたと思われる。

 

ヒッタイト王国の首都ハットゥシャの近くにあるアラジャ・ホユック遺跡で、およそ3500~3400年前の地層から、鉄器を製造していた痕跡が見付かっている。

 

2017年(平成29年)には、現在のトルコの首都アンカラから南東約100kmにあるカマン・カレホユック遺跡から、さらに1000年前のものと見られる世界最古の鉄製品が発掘された。


その後、ヒッタイト人は独自の製鉄技術を発達させ、武器や実用品として鉄器を製造したが・・・彼らは鉄製の車輪を二頭の馬に引かせる戦車(チャリオット)を発明し、周辺諸国との戦いを進めた。ヒッタイト人は製鉄の技術を秘匿していたと言われ、それによって勢力を伸ばした。

 

エジプト新王国とのカデシュの戦い

 ヒッタイト王国のシリアへの進出は、エジプト新王国を強く刺激した。

 

前13世紀のはじめに即位したラメセス2世は、直ちにシリア地方への積極策を取り、ヒッタイトの属国を攻撃すると、ヒッタイト王国のシュッピルリウマ1世の子のムワタリ2世はシリアへの進軍を開始、両軍は前1286年頃にシリアのオロンテス河畔で衝突、カデシュの戦いと成った。


この戦争は、エジプト側の史料では自軍の勝利と記され、ヒッタイト側ではムワタリ王の勝利と記している。

 

エジプト新王国はシリア占領地は確保したものの進出はこれで止まり、ヒッタイトのシリア領も変わらなかったため、結果的にはヒッタイトの勝利と考えられる。


平和条約の締結  カディシュの戦いの後。

前1269年頃、ラメセス2世とハットゥシリ2世(ムワシリ2世の子)の間で「平和条約」が締結された。

 

この平和条約はボアズキョイで発見された粘土版に断片が残されて居り、領土の不可侵・相互軍事援助・亡命者の引き渡しと免責などが定められている。

 

エジプトのテーベにあるカルナック神殿やラメセス2世の葬祭殿にも平和条約締結の記録が記されている。


このカディシュの戦いは世界史の中でその経緯が記録として残されている戦争としては最初のものであり、平和条約も世界最初の国際条約としての意義を持っている。

 

ヒッタイトの滅亡

 前13世紀も終わり近く、オリエント世界でメソポタミア北部にあったアッシリアがミタンニから自立して有力となり、多数のヒッタイト人がユーフラテス川の対岸に強制移住させられている。

 

さらに、前1200年頃、エジプトの記録によると、西のエーゲ海方面から侵入した「海の民」がヒッタイト王国を攻撃し、それによって滅亡したと思われるが・・・その事情は分からない点が多い。


鉄器時代への移行  

 ヒッタイト王国は約500年にわたって主にアナトリアを支配した帝国であったが・・・オリエントに興った民族移動の第二波の影響によって滅亡した。

 

ヒッタイト王国が滅亡した事によって、ヒッタイトが国家機密として独占していた鉄器製造技術が、西アジアから東地中海一帯へ拡散され、文明段階の青銅器時代から鉄器時代へと移行したと考えられている。

 

と言う事でした。これ、正にひとつの歴史ですね。

 

ところで、先日、ある文章を読んでいましたら『欣快(きんかい)』と言う言葉に出会いました。

 

その文章から、ほぼ意味は取れたのですが・・・一応、調べて見ました。

 

以下、小学館のデジタル大辞泉に掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

非常に嬉しい事。また、そのさま、と言う事でした。

 

では、本日の小職の予定です。

 

今日は、多くの時間、NPO法人事案(収益法人事案を含む)に伍します。

 

ただ、朝夕は、社会福祉法人に参ります。