さ~て、先日、ある資料を読んでいましたら『西馬音内城』に出会いました。

 

興味を持ちましたので、少し調べて見ました。

 

以下、『城郭放浪記』の公式ホームページに掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

出羽 西馬音内城の写真

 

<形態>

山城(185m/90m)

 

<別 名>

なし

 

<文化財指定>

県指定史跡

 

<遺 構>

土塁、郭、堀、井戸

 

<城 主>

西馬音内小野寺氏

 

<歴 史>

建治3年(1277年)小野寺道直によって築かれたと云われる。 鎌倉時代初期に雄勝郡に入部した小野寺経道の二男道直が由利方面に対する備えとして西馬音内に配され、その後西馬音内氏を名乗った。

 

天正14年(1586年)最上氏に属した鮭延地方の奪還を目指した有屋峠の合戦では西馬音内茂道も参陣した。

 

文禄元年(1592年)西馬音内茂道の女を娶って婚姻関係であった由利十二頭のひとり八森城主矢島満安が、同じく由利十二頭のひとり山根館の仁賀保氏によって八森城を追われ、西馬音内へと逃れてきたが、この事が宗家との間にあらぬ疑いを招き西馬音内氏は満安を自刃させた。

 

この様な内紛の中、山形城主・最上義光は雄勝郡へ侵攻し文禄4年(1595年)頃には西馬音内氏・柳田氏・松岡氏・深堀氏などが最上方に属した。

 

慶長3年(1598年)、横手城主・小野寺氏が湯沢城奪還を目指すと西馬音内氏は再び小野寺氏に属して立ち上がった。

 

慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では上杉氏に呼応して東軍となり、上杉氏が最上領から撤退した後は孤立し、最上氏が雄勝郡へ侵攻すると西馬音内氏は城を焼き払って庄内へ逃れ、横手城主・小野寺氏は改易と成って石見国津和野へ流罪と成った。

 

<説 明>

西馬音内城は旧元西小学校の南背後に聳える標高185m程の山に築かれている。以前は本丸に通じる見学路以外はシダ藪によって歩きづらかった。しかし、今回訪れたときにはシダがかなり伐採されており、非常に見学し易くなっていた。

 

西馬音内城は山上を広く削平し、一段小高い切岸を持つ曲輪群とその周囲を巡る曲輪群がある。

 

元西小学校から続く遊歩道は北尾根の堀切を越えて隅櫓台と呼ばれる曲輪と曲輪の間を通り、二の丸の東側面を通りながら主郭に達する。

 

この途中には竪堀を入れて通路を狭くした部分があり、主郭の東側の鞍部には空堀とも通路とも思える遺構に達する。

 

主郭部はこの西側の丘陵であるが・・・東側にも飯塚館と呼ばれる曲輪群があり、東端は二条の堀切で遮断している。

 

主郭には現在も水が溜まる井戸があり、南側にはこの地で自刃したと言う「伝矢島五郎満安自刃の地」の碑がある。

 

主郭から北東に伸びた曲輪が二の丸とされ、その先端が櫓台と成る。

 

東の尾根にある飯塚館と呼ばれる曲輪は東から南に掛けて横堀が巡り、一部土塁が付いている。

 

さらに外側にも一条堀切があり、この曲輪群は東からの攻撃に備えた出丸のようである。

 

<案 内>

旧元西小学校の所に案内板と大手門跡の石碑が建っている。 登山道は小学校の校舎西側にある坂道で、これを登った所に西馬音内城入口の標柱がある。

 

(以下、略)

 

と言う事でした。登城して見たいですね。

 

ところで、先日、新聞を読んでいました『大利(おおとし)』姓の方が登場。

 

由来に興味を持ちましたので、少し調べて見ました。

 

以下、日本姓氏語源辞典に記載されていた内容を転載させて頂きます。

 

尚、主旨が変わらない程度で、小職が書き換えています。

 

高知県高知市鏡大利発祥。安土桃山時代に「ヲゝリ」の表記で記録のある地名。地名はオオリ。

 

広島県広島市安佐南区緑井に分布あり。

 

広島県山県郡北広島町大利原は江戸時代に記録のある地名。地名は「大年原」とも表記した。

 

石川県白山市笠間町では農業に従事していたと伝える。推定では江戸時代、とありました。

 

そして、もう一話。

 

先日、ある文章を読んでいました『情識(じょうしき)』と言う言葉に出会いました。

 

ん~?、と言う事で、少し調べて見ました。

 

以下、『学研全訳古語辞典』に掲載されていた内容を転載させて頂きます。

 

意味は『強情で頑固な事。わがまま』だそうです。

 

では、本日の小職の予定です。

 

今日は、先ず、教育事案に伍します。その後は、NPO法人事案(収益法人事案を含む)です。