さ~て、今日は、京都新聞(6月25日配信)から話題を拝借です。

 

同紙を転載させて頂きます。ただ、主旨が変わらない程度で小職が書き換えています。

 

室町幕府の15代将軍・足利義昭のため織田信長が築いた旧・二条城跡で、城の最中心部「内郭」を囲ったと見られる堀跡が京都市の発掘調査で見付かった由。

 

室町通と言う幕府が最も重視した主要道路を横切る異例の形で築かれ、乱世の緊迫を背景にした近世移行期の遺構と見られているそうです。

 

旧・二条城は、永禄12年(1569年)、13代将軍・足利義輝の邸宅跡地に、義昭を奉じて上洛した信長が築いたものです。

 

尚、調査は上京区室町通下立売上ルの約80㎡で行い、既に終えているそうです。

 

堀跡は東西方向で幅6m分、深さ最大3m分を確認し、底には泥土状の堆積があり、水が張られていたと見られるのだとか。

 

16世紀末に出来、江戸期初頭までに埋められた由。

 

旧・二条城は過去の発掘調査などから、将軍邸「室町殿」に準じ、方形で内郭や外郭が築かれたとの見方が有力だった由。

 

しかし、内郭の北西角を想定した今回の調査地では、堀跡が南北路の室町通に沿って南方向に折れる事無く、通りを突き抜けて西側へ延びていたと言うのです。

 

主要建物のあった内郭の一部が外に突き出す「出隅(ですみ)」と成り、高層建物があった可能性を示すのだとか。

 

京都市文化財保護課は「室町期の主要道路を横断してまで出隅を設けた意図は何か。どのような建物があったのか。近世への移行期の城郭や京都を考える史料になる」と。

 

ん~、興味深い作りの建屋ですね。

 

そして、先日、ある文章を読んでいて目にした言葉です。

 

『該博(がいはく)』、と。

 

意味は、物事に広く通じている事、学識の広い事、だそうです。

 

と、言う事で、本日の小職の予定です。

 

今日は、終日、収益法人事案に伍します。間を縫って、山積した書類と格闘します。