さ~て、ある資料を読んでいましたら「柔軟心(にゅうなんしん)」と言う表現が登場しました。

 

当たりの良い言葉だと思いませんか?

 

そこで、Webで調べましたら、株式会社木立の文庫~身になる禅のことば、第1回、と言う文章に当たりました。

 

そこで、以下に、その文書を転載させて頂きます。尚、主旨が変わらない程度で小職が書き換えています。

 

柔軟心(にゅうなんしん) その壱   藤田一照

 私が禅に関して最も多くを学んでいるのは道元〔正治2年(1200年)~建長5年(1253年)〕からです。その若き道元が「正法」を求めて渡った宋代のChinaで運命的に出会い、この人こそ自分の「正師」だと確信したのは天童如浄〔応保3年(1163年)~嘉禄3年(1228年)〕と言う禅匠でした。道元が如浄に参師問法した記録と目される『宝慶記(ほうきょうき)』という書物の中に「大悲を先とする坐禅」についての二人の遣り取りがあります。——私が初めて《柔軟心》と言う言葉を目にしたのは、その一節においてでした。

 

 如浄の『仏祖は常に欲界に在りて坐禅辨道す。[中略]世々に諸の功徳を修して心の柔軟(にゅうなん)を得るなり』という説示に対して、道元は『作麼生(そもさん)か、是れ心柔軟なることを得ん(では、いったいどの様にしたら心が柔軟である事が出来るのでしょうか?)』と尋ねます。


 如浄の答えは『仏仏祖祖の身心脱落を辨肯する、乃ち柔軟心なり。這箇を喚んで仏祖の心印と作すなり(これまでの仏や祖師たちが体現した身心脱落を納得の行くまで修行する事が、即ち、柔軟心である。それこそが仏祖の悟りの証である)』でした。道元は礼拝を六回してこの答をその身に受け取ります。

 

 “身”を強調しておきながら、どうして“心”という字が入った禅語を選んだのか? と訝かしく思った方もいるに違いありません。
 しかし、如浄によれば柔軟心は「身心」脱落の修行の徹底であると言うのですから、“心”だからといって、単なる「心の持ちよう」と言う様な心理主義的な理解をしてはいけないのです。


 普通、身心(通常は「心身」と書く場合が多いものの、道元は必ず“身”を先において「身心」と表記しますので、ここでもそれを採用します)と書くと「身と(・)心」と言う様に二元的に理解されます。しかし、禅では〈身心一如〉と言う様に一如のものとされます。哲学においても、身心の関係をどう捉えるかと言う事は「心身問題」として長く考究されて来ました。しかし、未だに多くの説が競い合っているのが現状で、決着してはいません。


 禅では、心は「目に見えない働き」、身は「それが目に見える形に現れたもの」と理解しています。心のない身はないし、身のない心もないという意味での〈身心一如〉なのです。


 ですから、仏祖の心印(仏や祖師であることの証)とされるぐらい重要な要件である《柔軟心》は、そう言う一如の関係を通して、必ず《柔軟身》としても表現されなければなりません。

 

 では、《柔軟身》とは、どの様な“身”なのでしょうか? 次回に考察を続けます。

 
 
[あいの手] No-bodyのこと  西平 直
 道元禅師でしたか。しかも「ソマティックに」。嬉しいです。
 これからの連載で、禅語をどの様に「“身体的”な文脈」で解きほぐして下さるのか。楽しみにしています。
 

 ところで、「身心脱落」と聞いて、こんな体験を思い出しました。〈無心〉について話をした時のことです。英語を話す人たちの集まりでした。
 〈無心no-mind〉はからだに成る事。頭で考えるのではなく、“からだ”が自然に動く。意識的に狙うのではなくて、“からだ”が自ずから弓を射る。
 そう理解してもらえたのは嬉しかったのですが。しかし、途中から、何か違う、と感じる様に成りました。その“からだ”がオートマチックな運動の様に語られるのです。もしくは、惰性的な繰り返しが〈無心〉であるかの様に語られていたのです。


 それは違います。少なくとも惰性的な繰り返しが〈無心〉の全てではありません。しかしどう説明したら良いのか分からない。そこで、悔し紛れに“no-body”と言って見ました。
 体bodyが動くのでは無い。no-bodyが動く。「からだが自然に動く」とは、no-bodyとなった“からだ”が動くこと。心がno-mindになる時、体もno-bodyになる。
 みんな何か感じた様です。もちろん納得した訳ではありません。分かった様な、分からない様な。
 no-bodyが、自ずから、動く。しかも〈気〉に満ち溢れ、生き生きしている。おそらく、禅の方々が「身心脱落」と呼んで注意を促して来た事ではないでしょうか。「身心脱落」を通した「身心一如」。
 no-mindになる時、体もno-bodyに成る。そのno-bodyに成った“からだ”を、日本の思想は〈無心〉と呼んで来たのかも知れません。

 「悟った息を見せてみろ」。
でも、悟った息は消えている。消えた息を、さて、ご覧あれ。

 

藤田一照藤田一照(ふじた・いっしょう)

愛媛県生まれ。
東京大学大学院(発達心理学を専攻)在籍中に坐禅に傾倒、29歳で得度。 33歳で渡米し、17年半にわたって坐禅を指導。2005年に帰国後も、坐禅の研究・指導にあたる。曹洞宗国際センター前所長。Starbucks、Facebook、Salesforceなどアメリカの大手企業でも坐禅を指導する。
2017年、オンライン禅コミュニティ「大空山磨塼寺」開創。
最新著:『学びのきほん ブッダが教える愉快な生き方』(NHK出版 2019年)
●公式サイト http://fujitaissho.info/

 

 

西平 直西平 直(にしひら・ただし)

1957年、山梨県生まれ。
東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。
2007年より、京都大学大学院教育学研究科教授。
アイデンティティ、スピリチュアリティなどの問題意識のもと、「稽古」哲学や「無心」論などにも力を注ぐ。
近著:『誕生のインファンティア』(みすず書房 2015年)
『無心論』松木邦裕と共著(創元社 2017年)
『ライフサイクルの哲学』(東京大学出版会 2019年)

 

と、言う事です。興味深い読みました。皆さんは、如何ですか?

 

では、本日の小職の予定です。

 

今日は、多くの時間を教育事案に費やします。