こんばんわー。 さて 字づいてみると 今週の土曜日 マラソンを走ることになってるんですが まあ 多少は 準備したものの 今回も 余りレースに向けて 特別なことはせず 基本 より楽に動く動き方の探求だけ積み重ねて レースに臨むことになります。

 

まあ然し 此処数年ほど マラソンや アイアンマンどころか ハーフマラソンにすら 歯が立たずに 痛い目に 会い続けているのに 相変らず ろくにレースの準備せずに マラソン向うわけなんで 懲りないやっちゃなーとは 自分でも 思うんですが爆  笑 まあ こればっかりは どうしようもないんですよねショボーン これ なんども書いてて 自分でも 変な表現かとは思うんですが 今 私の取組みって 私のコントロール下に無いというのが 正直な印象なんで。

 

この現象 長い時間かけて 徐々にこうなってきた物で  正直 自分でも何故 こんな風になっていったのか いまいち わかってなかったんですが笑い泣き 最近 漸く なんでこんな変わった取り組みになってきたのか 其れが腑に落ちてきているように思います。 で これ 今日 言葉に落ちたような気がしたんですが 其れは  ”方向が逆だから” という事のようですキョロキョロ

 

私は 先日 この動画を見つけて あれから何度も このブログに載せてきましたが

 

 

私は最近 ここまでの取り組みの中で 出会ってきた 全ての言葉とか 考え方とか そういうもの 全て 其れなりに意味があって 出会ってきたように感じ始めているんですが この動画との出会いも そういう流れの中での最新のものというか そういう感じに感じていて 最新だからこそ 今までで一番大事なモノなのかなーと 考えています。

 

で この動画の中で 室伏さんが ” 運動をする スポーツをするというのは 筋肉に力を入れてやるものだと 思ってますけれど” といわれているんですが 私にとって ”動く” という事はまさにこの 筋肉に力を入れてやるものに他ならないものなんで このことを このブログにも なんども書いてきていたことだったんですよね。

 

ところが 8年近く ”脱力” という世界を追いかけつづけてきて 漸くハッキリしてきたのは 脱力で動くというのは ここの部分が真逆になる世界なんだという事なんですよねびっくり まあ 勿論 言葉上は 脱力で動く 要するに 力を入れないで動くことなんで それ以外に意味のしようがないわけなんですが ただ これ 私の場合 若い頃 必死につき詰めていってたことの 正反対の方向を 突き詰めていくことになるんで 其の事の意味が 腑に落ちてくるだけで これだけ時間がかかるのも 致し方ない事のように思っていて 通りで やれ レースの結果だの トレーニングだのという部分に こだわる余裕が なくなっていったわけだよなーと 漸く腑に落ちてきてるようです。

 

合気道の塩田剛三師が ”合気道では 体のよどみを作らない為に 筋肉を鍛えてはいけないんだ” と語られてましたが 宮塚さんが ”筋力は無いものと思って” といわれてたように 脱力を突き詰めていくという事は いかに 筋肉を使わないかを突き詰めていくことになるわけなんで 筋肉が鍛えられているようでは 脱力がすすんでいる事にはならない。 どうも そういう事二なるようなんですよねびっくり

 

なので 例えばトライアスロンでいえば 宮塚さんが ”一つのトレーニング方法ではありますが 其れでだけでは限界がある” ト書かれてた ”より多く よりハードにトレーニングする” これ トレーニングで 体を鍛えることで より多く距離を積め より速く動けるという まあ 恐らく 世界のアスリートのほぼすべてがやっているやり方では 脱力を追いかけていることにはならなくて そうではなく 脱力が進む。 つまり 運動のおける 自分の筋力への依存度が下がっていくことで より多く距離を積め より速く距離をこなせる。 こういう形になってこなければ 脱力という極意を追いかけていることにはならない。 どうもそういう事なんで 一度 距離 スピードが下がってでも 其の方向に 私の取り組みを振る必要があった。 まあ 言葉で表現すれば そういうことのようです。

 

私 先日 三種目とものキーワードとして ”力を入れてはいけない” というところにたどり着いたことを書きましたが まあ 元々 脱力という極意の世界を追いかけてきたわけなんで このこと自体は 当たり前の、事にはなるんですが ただ ずーっと d力を積み重ねてきて 自分の中の キーワードが ここまで来た。 このこと自体には 凄く大きな意味があるように 考え始めています。 

 

まあただ 私 小学校低学年のころ 徒競走びりが定位置だったのを 高校のころまでには サッカーに必要だった 最初の数歩から 2-30mのスピードって 学校レベルでは だれにも引けは取らないところまで 努力で持ってった まあ 一種変わった人間なんですが これ 走るという動作につぎ込める 自分のパワーをどんどん上げていくことでつけて行ったスピードだったんですよね。

 

で そんな人間が 50過ぎた今になって 今度は真逆の 運動に いかに自分の力を使わないか という方向性を 突き詰めていってるわけなんで ある意味 人間に取って 一つの極から 逆側の極に向っての旅路になるようなんで まあ とんでもなく 果てしない話のように思います滝汗

 

まあでも私 以前 ”運命の歯車”という記事を書いていて 私にとって アイアンマンに挑戦することって そういう運命だったのかなーと そこまでの歩み振り返ってみて感じたから ああいう記事書いたようなんですが 実は最近 そのアイアンマン挑戦すら この 脱力という極意を追いかけることになるために必要だった 旅路の一部でしか無かったのかなーと そんな風に感じ始めています。 

 

これ迄 学んできたいろんなことから 総合的に考えて 脱力のいきつく先tって 恐らく ”境地” とされている ”無我” そこになると思いはじめているんですよね。 (まあ だからこその ”極意” という事なのかと思うんですが) で 塩田師が ”山の登りはいろいろあれど 頂上は一つ” とおっしゃられてましたが この 無我の境地も どうも同じことで どんな道を辿ろうが 辿り着く境地は一つ。 その様に感じていて 私にとっては 唯一の生きがいだった スポーツを通して そこに向けいつか歩くことになる。 これは実は 運命 というか 其れが 私にとっての ”氣の所為” だったのかと そんな風に感じ始めています。

 

まあ 然し 自分の取組み というより 自分の人生そのものが どうも 自分のコントロール下に無くなってきてるようなんで まあ これからも この道を ひたすら歩き続けていくことになりそうです。 只 そのうえで 今私が歩いてる道は 昔私が進んでいた道とは ”方向が逆”であることを心に留ておくのは 助けになりそうなので 肝に銘じて 此れから取り組んでいこうとおもっています ニコニコ