こんばんわー。 さて 今日は 三連休の最終日だったんですが 今日も 間違いなく 此れまでで最高の 話の進展があり 休み全体でみても 非常に実りの多い 休みを過ごせたように 思います
最近 つくづく思うのは 8年ほど前 先輩に ”その極意は 最大の武器になる” と教えていただいた 脱力を 途中で投げ出さずに とことん追いかけてきて ほんと良かったなーという事なんですよね。 先輩ほどの人が あそこまで 強い表現使ったのって 勿論 それなりの意味があるようで 此れ 私が当時想像してたのより はるかにトンデモナイ世界の話しのようなんで。
そういえば 私 以前 レース前に ブロ友さんから ”一年間 ひとつのことだけを追求された成果を見せてくださいね” というコメント頂いたことがあるんですが もう今は 一年どころか 8年近く ひとつのことだけを追求してきてるみたいですね まあ すくなくとも 其の執念深さだけは 誇りにしてもいいのかもなーと 今日 そんなことを思いました
まあでも 去年出会った 10年以上 ほぼ毎日 1-2時間 摺り足を繰り返して 脱力という極意の世界を追われた 青木さんの例見ても 極意とまで 呼ばれてる世界を追いかけるって そういうもののようですね。 そういえば 青木さんは 摺り足のことを ”正中線をブラさずに 重心を水平に移動する” と表現されていて 以前 この ”正中”というものがつかめるまで どれくらいかかりました? と聞いたことがあったんですが 青木さん なんでもない事のように そういえば 最初6-7年は 全く分からなかった といわれてたんですよね まあ正直 私も つい最近まで 脱力で動く という事が いったいどうい意味なのか ほとんど分からないまま 取り組み続けてきてたようなんで やっぱ そういうものなんだろうなーと 思いました。
で 漸く仕組みを理解することだけは出来るようになってきたと感じてる ”脱力で動く” なんですが 此れ 結局 自分の全身のすべての筋肉を いかに弛緩させて動くか。 そういうことのようなんですよね (まあ 分かってみれば 読んで字のごとしではあるんですが) だから 世のなかに トライアスロンは掻かない 漕がない 蹴らない なんて言葉があるのは 伊達ではないようで どうやら 脱力で動くというのは 私の言葉にすると 泳がず 漕がず 走らずに進む。 そんな感じになるようです
今日 走ってるときに 思いだしたことがあって それが 私 2019年の IMNZ のランパートの振り返りの記事で 後で読み返す時 わかりやすいように 一言だけ 太字で書き残してたことがあって 恐らく こういう理由で 太字使ったのって この8年くらいで この時だけだったようなんですが その言葉というのが ”地面と仲良くすること” だったんですよね。
で 今日 この言葉 思いだしてて ひとつ思ったのが 此の ”地面” て 地球そのものの訳なんで 彼我のサイズの圧倒的な違いからして ”仲良くする”って 既に 自己中で おこがましいものの見方で 恐らく ”仲良くさせていただく” そんな感じの方が 正しいように思いました。
で 此の地面と仲良くさせていただくためには やはり ぶつからない事。 つまり 野口みずきさんが言われていたという ”調子がいい時は足音がしない” この状態の事かと思うんですが そのために 脱力で接地に行くことが肝要で で脱力で接地に行くと 当然 推進力は すでにそこにある推進力から作らざるを得なくなるわけで となると 以前スイムに関して 元マスターズ日本記録保持者の方が書かれてた ”推進力を失わない技術” これが大事になってくるんだろうなーと思いました。
ただ 此の対比写真に見えるように
私 脱力二取り組みはじめて 3年近くたってて 一応 マラソンも アイアンマンのランパートも 私のPBになってる 2019年のこの時点ですら 接地の瞬間 まだまだ 体中の筋肉固めまくって 骨格のもともとの仕事 横取りしながら走ってた人間何で この道のりは はるかに遠いですね まあでも バイクなんかは かなり漕がないという漕ぎ方と呼べるやり方みえてきてるようですし まああきらめず 取り組んでさえいれば 目ざしているものに どんどん近づいてはいくもののようなんで くらいつき続けていこうと思っています。
私 先日 息子と話している時に 私のような 性格の人間が タウポという NZ一の 国際大イベントである アイアンマンNZが毎年開かれてる町に住んでいると どうしても いつかこのレースとは ぶつからざるを得ない運命だったのかなーという言葉が 口をついていたんですが 今日 やっぱそういう事だったように思いました。
というのも 私思い出してみると 自転車とか マラソンとかやり始めた頃 まだ トライアスロンには まったく興味なかったんですが 地元何で ふと アイアンマンのエキスポ どんなもんなんだろうと 覗いてみた事があったんですよね。
ただ その時 なんか そこに集まってた アイアンマン参加者って 凄いフィットネスの人ばかりに見えて なんかすごそうなオーラが漂ってて 私なんか場違いに感じて すごすご帰ってきたの覚えてるんですが 私 よく考えて見るとそういう経験して 其のままで済ませられるタイプの人間では無いんですよね まあその時は 意識してなかったんですが 実は あの時 既に IMNZというレースとは いつか衝突する運命だったのかなーと そんなことを思いました
そんなこと考えてて ふと思ったのが 実は ”脱力という極意” これとも いつか向き合わざるを得ない運命だったのかなーという事なんですよね。 最近 よく思うのが この ”極意”というもの まあこれ 合気道の塩田師が言われていた ”山の登りにはいろいろあれど 頂上は同じ” の ”頂上" のことかと思うんですよね。 なので どんな道をたどっているにしろ 真剣に何かを突き詰めていけば そこに自然とたどり着くことになるはずで どうやら私 この ”真剣に突き詰めていく”タイプのっようなんで まあ これと向き合う事二なるのは 実は時間の問題だったのかなーと 思いはじめています。
で 塩田師のいう ”頂上”なんですが これは結局 仏陀のたどり着いた悟りと呼ばれている 空 つまり 無我の境地。 これなんだろうと これ迄 いろんな世界の達人たちの話に接してきて 思うようになってきていて 此の無我の境地につながる道だから ”脱力が極意” そういう事なんだろうなーと 思いはじめています。
まあしかし 思いだしてみると この ”脱力という極意” 最初 出会ったころなんて 正直 海の物とも ヤマのものとも全く見当もつかない世界だったんですよね。 (なんせ ”極意”なんて言葉自体 漫画とか そういう作り物の世界の中だけの話しとか そんなイメージだったんで)なので 振り返ってみると ほんと いろんな方々の導きのお蔭で ここまでずっと追いかけてこれたんだなーと いまさらながら 感謝の念を抱いています。
今日ふと思い出したのが 最近 この事ばかり書いている 合気道の世界とか 塩田剛三師の世界。 これ自体に出会ったきっかけも 実は ブロ友さんにいただいていたという事だったんですよね。
私 合氣道自体には かなり前に一度 興味は持って どんなもんなんだろうと 思って ウィキペディアのページ読んでたら その中の一文に ”合気・呼吸力を具体的な技法原理として解明するために、脱力・体重利用・重心移動・腹腰部深層筋・梃子の原理・錯覚や反射の利用・心理操作など様々な側面から説明が試みられている。” というのがあって これらの言葉ほとんどが 私 其のころ 練習ノートに書き残したことがあった言葉ばかりだったんで いつか合気道のことは 勉強してみる必要があるなーと思ったのは 今でも覚えています。
で 此れ 8年くらい前の話なんですが 私怠け者なんで 合気道のことは頭にはあったものの その後 ほとんど調べる事もせずに 時間だけ経っていってたんですよね ただ 確か 4年くらい前かと思いますが ブロ友さんに 合気道の 植芝吉祥丸さんの動きを 見てみてください といわれて 見てみたのが その後合気道の世界に 興味を持つきっかけだった様に記憶しています。
よくよく考えて見ると 私のアイアンマンの取組み そして このブログに書き綴ってきたことのすべての中心にある ”脱力”というもの これ自体 ブロ友の先輩にいただいたアドバイスのお蔭で 本格的に 追いかけ始めた事だったわけですし 私実はこのブログ書きはじめたことで すごく大きな恩恵を頂いてきているようですね。 ほんと 感謝しないと罰が当たるなーと いまさらながら 思いを新たにしました。
まあでも ブロ友さん方から こういうインプット㋾いただけたのも 自分なりに真剣に取り組みながら 其の事を包み隠さず ブログに書き続けていたからなのかなーと思いました。 こういうアドバイス頂いたお二人とも 私ではかなわないほど 真剣に スポーツ取り組まれてきた方々だったんで 私の必死さの中に 何か感じられて こういうアドバイス頂けたたのかとも思うんで。
そういえば 私が 最近 すごく気になるようになってきた “氣”というもの 最初に 今 ”気”と表記されているものには ”氣”という旧字体があったこと 気づかせてくれたのも このブロ友さんだったんですよね。 この方が ブログで ”元氣” という表記使われてて 意図的に こちらの字を使っていることをブログに書かれてたことがあったんで。
で 不勉強の私は つい最近になって 日本語には やたら 気が付く言葉が多い事二気付き それらの言葉の多くが 英語でいう 只の ”Feeling” のイメージがある ”気” よりも 古代中国から伝わる 気功とかの 英語で ”Chi” とか ”qi"とひょきされる方のイメージに私が感じる ”氣” を使ったほうが 意味を成すことに気づいてきてるんですが 特に 其の事を感じたのが すごくよく使われる ”気のせい” という言葉が 実は漢字表記は ”気の所為” だと知った時だったように思います。
というのも 此れ以前もかいてますが 今 ”気のせい”というのは ほとんど ”勘違い”に近い意味でつかわれるように思うんですが これが ”氣の所為” となると 氣の為す所 となり 意味が全く変わってくるように思うんですよね。
で 私が最近感じているのは 例えば 上の ブロ友さんたちからアドバイス頂いたことなんかも お互いの ”氣”が 触れあう事で起きること つまり ”気の所為” とでもいうべきことなんじゃないかと思うようになってきてるんですよね。 あと 実は 其の前に書いた 運命みたいな物 こういうのも 実はより大きな意味での “氣の為す所” つまり 気の所為 なんじゃないかと 思いはじめています。
まあなんにしろ 八年近くかけて 脱力の方向だけを追いかけてきたおかげで 本当に 面白い世界が 今になって見え始めてきているように感じています。 でまあ さすがは 八年ほど前 先輩が ”その極意は 最大の武器になる” とまで言われていただけあって この方向を 世界の誰よりも 突き詰めていければ それは私の最大の武器になるのは間違いないと感じ八字得ています。
なので 後は どこまで 突き詰め 身に着けられるか。 そこに全てが 掛かっているようなんですが 塩田剛三師のお孫さんが ”合気道の神様が 亡くなる前に伝えたかったこと”と副題を付けた この動画の タイトルにあるように
”楽であり 難しい”。 確かに 脱力を突き詰めていくことで 運動というのは どんどん楽になっていくようなんですが ただ それは同時に 常に変わり続けていくことを意味しているようで 非常に難しい。 つまり 長く険しい道のり。 その様に感じています。 (どおりで 室伏さんや サイクリストの 宮澤さんレベルの人たちも 口をそろえて ”難しい”といわれてるわけですよね)
ただ 果てしなく長い道のりだからこそ 日々いかに確実に 一ミリでも 前に歩を進められるか。 そこが大事になってくるように思います。 なので これからも 地道に 一歩一歩 歩を進めていこうと 思っています