こんばんわー。 さて 今日は 三連休の最終日 予報は 一日雨だったんですが 実際には そんなに降らず 今日も 三種目まんべんなく 脱力という極意の世界の探検 満喫してまいりましたニコニコ

 

今日は 雨が止んだ後 きれいに晴れたんですが どうも 私の心も 最近 どんどん 晴れてきてるように感じています。 で今日思ったのは 結局 私の中で 歩んでいくべき 確かな道筋というか そういうものがどんどんはっきりしてきてるんで それで 気持ちが 晴れやかになってきてるんだろうなーという事でした。

 

ただ まあ この道筋自体は ”脱力” なわけなんで 何かが変わったわけではないんですが笑い泣き 私も 流石に 追いかけ始めて 8年近くなんで ”脱力が極意” という事の意味が 以前よりはっきりしてきたようなんですよね。 で それが 脱力だけ追いかけていれば 脱力だけ追いかけていれば それでよいという事で 元々 極意なんてもの追いかけてたら ふつうそれ以外のことに氣を取られてる余裕なんてないもののようなんですが まあ ”極意” という言葉自体 もともと そういう意味かと思うんで 当たり前のことが分かってきただけとか そういう話ではあるようなんですが笑い泣き

 

ただ! よく考えて見ると 脱力が極意といわれてるの見たの 私が見た範囲では 武道の世界とか 芸術の世界で スポーツの世界 特に 英語圏では 一切見掛けたことが無いんで 脱力が極意だという事がはっきりしてきただけでも 努力積んだ甲斐はあったのかなーと思うんですよね。 というのも すくなくとも 英語圏では 脱力が極意だという事 誰も気づいてないとか そういう話かと思うんで 要するに この部分 真剣に追いかけている人も ほぼいないとか そんな話かと思うんで。

 

まあでも 宮塚さんが ”良い走りをしている人は 骨ランになっていて そうでない人は骨ランになってない。 それだけの話しです” と かかれてたんで 要するに 持久系の得意な人とかは そうでない人に比べれば 元々 脱力側で動いているとは言えるんだろうとは思うんですよね。 ただ どうも こういう人たち 何で自分が持久系早いのかの仕組みみたいなものにはいまいち気づいていないように見かけてるんで この部分 自然に身についた部分から 先に進んでないのかなーと 思いはじめてるんですよね。

 

で わたし アイアンマンのレースで ひとつ 実体験で学んだことがあって 例えば アイアンマンのランパート入って 自分の一週先走ってる人間には 相手が例えば歩きまくってても 前に進まれてしまって居ると なかなか追いつけるものではないという事なんですよねショボーン ただ 相手が ほとんど前に進んでないとか 下手すりゃ その場で止まっているとなると 話は別で とらえるのは 時間の問題となるわけなんで 十分 勝機あり。 希望が湧き上がってきてるように思いますラブ

 

ただ 昨日も 室伏さんが 力を抜くことを ”難しい” サイクリストの宮澤さんが 力を使わないペダリングのことを ”一番難しい事なのだが” と書かれてたこと 引用させていただいたように ”極意”とまで呼ばれるだけあって 脱力というものは 一番難しい事なんだと思います。 そういえば こちらの動画も

 

 

  

タイトルは ”合気道は 楽であり 難しい” なわけなんですが 脱力で動く。 宮塚さんの言葉借りれば ”筋力は無いものと思って” 動く。 まあこれ 自分の筋力に頼らない動き方なわけなんで 最高に楽ではあると思うんですが その分 難しい。 そういいう事かと 今は思っています。

 

ただやはり この動画に出会ったことには すごく感謝してるんですよね。 というのも 流石は 合気道のみならず ”武道の神様なんて 呼ばれてる方が お孫さんが ”なくなる前に伝えたかったこと” なんて副題付けられているだけあって この動画の中で おっしゃられている ”力を出すという事は 我を出す。 其れではいかん” とか ” 自分でやろうとするのではなく 皆に協力してもらわねばならん" こういう 言葉というより 言魂とでもいうべき 珠玉の金言 やはり 脱力という極意を追いかけるうえで 最高の手がかりを頂ける言葉のように思います。 最近 三種目とも いつもノートに書き込むのが ”気かに自分は何もしないか”とか そういう言葉ばかりなんで。

 

もう一つ 私がよくノートに書き込む言葉が ”我を消す” とか ”我を無くす” という言葉なんですが 結局のところ 脱力を追いかけていくと 向っていくのは ”無我” そういう事二なっていくようなんですよね。 (これ 普通にスポーツで かんがえると 大げさに聞こえるかもしれませんが アイアンマンでは史上最高の成績を残された アレン氏がレース中たどり着いた のが ”Let Go” つまり 無我の境地だったそうなので そういうものなんだと思っています) なので 塩田師の ”力を出すというのは我を出す。 其れではいかん” という言葉は すごく参考になったように思います。

 

後 今日ノートに書きのこしたのが ”地面の力と 推進力のハーモニー” という言葉だったんですが この部分 最近すごく大事に感じ始めている部分なんですよね。 塩田師が ”自分度やろうとするのではなく 皆に協力してもらわねばならん” とおっしゃられてますが 脱力 つまり 自分の力をどんどん抜いていくと 地面の力とか 推進力とか そいう運動に働いている 他の力の存在が どんどん 浮き上がってきて 例えばランでは こういう力のハーモニーが取れずに ぶつかり合ってしまうと ”足音” と呼ばれている 失われたエネルギーが生まれてしまい こういう無駄なものは 體のダメージとして 蓄積されていき レース中は レース終盤のきつさとして そして累積したものは 下手をすると 故障として 自分の身に跳ね返ってくるもののようなので こういうハーモニーに氣を向けることはすごく大事なことの用に感じています。

 

私は昔 “和をもって貴しとなす” という記事を書いたことがあったんですが こういう 和 とか ハーモニーとか 沿ういう コンセプト自体 英語圏ではあまり聞かない話なんですよね。 ところが 日本では こういう言葉が最古の成文憲法の最初に謳われたりするわけなんで 凄いレベルの文化だよなーと いまさらながら感じ入っています。 

 

で 結局 脱力を進めていき ”自分でやらない” つまり 無我の状態に近づけば近づくほど 全ての力のハーモニー つまり ”和””が生まれていくようで 恐らく 脱力が極意とされているのは 此の辺が理由なのかなーと思いはじめています。 

 

今日もう一つ 書き残した言葉があって ”氣を楽に → 楽しい” という言葉だったんですが 結局 こういう全ての力のハーモニーが生まれ 自分で何もしなくても 前に進むことが出来ると どんどん運動が 楽になるわけで どんどん 氣が楽になっていくようで 要するに ”気楽” 二なり 氣が楽になると 楽しくなる。 どうもこういう図式があるようなんですよね。 なので 昔の人が 楽 と 楽しい に同じ漢字を使ったのは その辺が理由なのかなーと 思いはじめています。 (まあ 日本では 楽と楽しいは 一緒ではないといわれてるのよく見かけますが 言アイアンマンとかやってると 正直 楽に越したことなんてなくて 楽な方が絶対に楽しい。 その様に私は感じています。)

 

まあでも 思いだしてみると 私が “氣” という旧字があることに気づいたのも 実業団まで 陸上やられてて ものすごくいろんなことを研究されてた ブロ友さんが こちらの “氣”という感じを つかわれていたからですし よく考えて見ると 合氣道自体には 昔一度興味持ったことはあったんですが 実際にいろいろ調べ始め 塩田剛三師という存在に行きついたのも 実は このブロ友の方二 合気道創始者の 植芝盛平翁の息子さん 吉祥丸さんの動きを見てみてくださいとアドバイス頂いたのが 直接のきっかけだったんですよね。  脱力という極意が最大の武器になると教わった先輩といい ちょっとあり得ないレベルのご助力を このブログ通していただいているようなんで ほんと 其の幸運に 感謝しないと罰が当たるなーと思いました。

 

まあ そういうご助力のお蔭で 漸く 進んでいくべき 確かな道筋が 私にもはっきり見えてきたように思います。 まあ 塩田師が 10年 20年と 合気道の道を歩いて来られた 高弟の方々に ”道は険しいわけですが” と何度も言われてるほどなんで ここからも 道は長く険しいわけではあるんですが まあ すくなくとも 今は 希望に満ち溢れて 道を歩き続けていけるようにはなってきたように思いますお祝い
 

そういう事考えてて  わたし 二年くらい前に ”パンドラの箱” という記事をかいていたのを 思いだしたんですが その記事の最後に こう書いていたようです。

 

”確か パンドラの箱に 最後 残っていたのは ”希望”だったかと思うんで 私もこのトンデモナイ世界を追いかけていった末には ”希望”が待っているものと信じて 追い続けていこうと思っていますニコニコ

 

 

まあこの ”脱力” まさに私にとって パンドラの箱だったようで ほんと 取り組みはじめて以来 いろんな感情が 頭をよぎったんですが笑い泣き 二年前に 期待していたように 最終的に残ったのは どうやら ”希望”だったように思います。 なので ここからも この希望とともに みえてきた道筋 歩き続けていこうと思っています