こんばんわー。 さて 今日は 3連休の最終日 例によって 三種目まんべんなく 脱力という極意の世界の探検 満喫してきたんですが 今回の休みも 間違いなく 此れまでで最高の話しの進展があったようなんで すごく 有意義な休みをすごせたようにおもいますお祝い

 

今日なんかだと 三種目とも 始める前と 最後の方で まるで 全く別人のような やり方というものが みえてくるんですよねびっくり まあ 今日も 話の進展がすごかったんで 学んだことを練習ノートに書きこんだんですが ”何もしない” ”いかに力を抜くか” という言葉がまた見えるので もう三種目とも それしかやることはなくなってきてるようです。 まあそれだけ 焦点が絞れてきてるんで 話がどんどん前に進みだしているという事なのかと思います。

 

今日 ひとつ ノートに書き込んだ 新しい言葉があったんですが それが ”自分はいかにニュートラル (無)” という言葉でした。 まあ これはまだ新しい概念なんで 言葉がこなれてないんですが笑い泣き 私日本で買った カシオとアシックスが共同で作った ランナーズメトリックスというの使っていて そのプログラムに良く ”骨盤をニュートラルに” (残念ながら英語版表記なのdえ 日本語表記の正確なとこはわかりませんが)って言われるんですよね。

 

 

で これ 今日 なんとなーく 意味が分かったんですが 恐らく私 骨盤回りの筋肉にガチガチに力入ってるんで これが抜けると 骨盤がスムーズに動くようなんで 恐らく 骨盤をニュートラルというのは仕組み的には そういう事かと思いました。 

 

ただ 骨盤回りには ものすごくたくさんの 筋肉があるようなんで ここの力を抜くって 恐らく そこの力だけ抜こうとしても 無理なんですよね。 で よく考えて見ると 體って すべて 骨格介してつながってて 恐らく 筋肉自体も どうしても 全部が連動するはずなんで 構造的に どこどこの脱力 ということ自体 無理な話のように思うんで やはり昨日書いたように 脱力というのは 合気道の藤平さんや 宮塚さんのいう通り ”全身の力を完全に抜く” つまり ”筋肉は無いものと思って” まで行ってこそのもの。 そういう風に思います。

 

面白い事二 日本では ”骨盤を動かず” とか ”肩甲骨を動かす” とかいう言葉しょっちゅう見掛けるんですが 英語圏では このての表現 まず見かけたことが無いんですよねびっくり まあ この 骨系の表現というのは コツ(骨)なんていう表現が 鎌倉時代後期から存在した 日本だからこその概念化と思っていて 昔 この 骨盤がうごくだの 肩甲骨がうごくだの 意味がさっぱり分からなかったんですが笑い泣き これは どうやら これ 脱力系の話しなんで ある程度脱力 つまり 全身の力を完全に抜くという世界が近づいて来ないと 動かないもののようなんで それで私にはさっぱり意味が分からなかったようです。

 

で 此の辺も 脱力 つまり 全身の力を完全に抜くというプロセスが 進んできたからなのかと思うんですが 今日は もう一つ 変わった言葉を 練習ノートに書き込んでいました。 で それが ”推進力や 地面や水の力に感謝する” という言葉でした爆  笑

 

これは流石に 読まれる方 まったく意味が分からないだろうと思うんで爆  笑 補足しとくと まあ 推進力の方は この推進力 つまり 勢いという力があるおかげで ランとかで 何十キロとか走るとき それが楽になるわけで 助けていただいているわけなんで 其の事実に感謝擦るという意味で 地面や水の力方は 例えば ランやバイク スイムの動作を 空中でいくらやっても 前には進まないわけで こういう運動は 地面や 水の ”抵抗”という力があるから成り立っているのは明らかで お世話になっているという事を感謝することで こういう力がよりうまく使えるようになる感覚があったんで こういう事を書き残した次第です。

 

しかしまあ こういう ”感謝の気持ち” みたいな言葉自体 アイアンマンに取り組みはじめる前は 私の辞書にはなかったとか 私 そういう人間だったんですよね笑い泣き この 感謝の気持ちというのは 実は 最初のIMNZ のウェルカムパーティーの場で マイクライリーという アイアンマンの名物アナウンサーの人が スピーチの中で言われていて 其れ以来 アイアンマンおレースでもまれながら この ”感謝の気持ち”というものの持つ力を 実地で学んできた物なんですが その意味では こういうところに 私の人間としての成長が表れているのかと 今日ふと思いました。

 

そういえば 今日 私の 脱力という極意を追いかける事の先輩にあたる 律動法の療法者 青木さんと ちょっと突っ込んだ話をラインでしてたんですが その今 世のなかで 知られている 医療とか 治療というものとは まったく次元の違う話である  律動法というものの 仕組みを読んでて ふと思ったのが 青木さん自身 ここに 自信をもって書かれている 話を 十数年前 律動法に挑みはじめる前の自分に 理解しろといっても 無理な話でしょうということで そう彼にも伝えたんですが 要するに こういうのが 長年の努力で それだけ この人が 変わったという事の証で こういうのを 成長の証というのかと思ったんですよね。

 

で よく考えて見ると 私自身 8年とか前 このブログ書きはじめ アイアンマンに挑みはじめる前の私に 今 このブログに 自信をもって書き綴っている話を 理解しろといっても 完全に無理なのは 自分に置いたことなんで 自分が一番よくわかることなんですよね。 その意味では やはり こういう事自体も ”成長の証”なのかとそんな風に思いました。

 

ただ 今日 同じように 頭をよぎったのが 今年のIMNZのレースレポに書いてた

 

”私のように 持久系自体が苦手な人間が それを得意とする人間たちを超えていくために 必要な 努力の量が 余りにも多い事を 今回の結果で さらに思い知らされて ちょっとうんざり感じて それでしばらく 苦々しい想いを抱いて走っていたのを 覚えています。”

 

この事だったんですよね。

 

この言葉の前に

 

” 今回の ランパートで 何で私が 数年前まで 特に問題なく出せてたタイムより 二時間とか タイム落としてまで 私が探し続けてきたものを さがし続けてこなければならなかったのか その意味は はっきりしてたんですが” 

 

とも書いてたんですが まあ此れは簡単なことで 2019年に作った この対比写真がはっきり物語っているように

 

 

宮塚さんが 

 

”骨ランとは特別な走り方ではありません。
簡単に言えば「良い走りのランナーは骨ランになっていて、そうでないランナーの走りは骨ランになっていない」だたそれだけの事です”

 

と書かれているように ますは そこを何とかしない限り 持久系の得意な人にかてるわけがない。 ただそれだけの話ではあるんですよね。 こちらも 宮塚さんが ”トレーニングの目的” という記事の中で 

 

”トレーニングする目的は皆さん、レベルアップするための方がほとんどです。
そのとき皆さん考えるのが、「より多く、よりハードにトレーニングすれば強くなる」と考えがちです。
それも一つのトレーニング方法ではありますが、それだけでは限界があります。”

 

と書かれてるように 私がいかに より多く よりハードにトレーニング積んで 体力 精神力鍛え上げても 人並み以上の体力精神力を持った 持久系が苦手な奴 という構図自体はかわらないんで 其れでは 私が夢見た世界というのは 何時まで経っても 夢物語に過ぎないわけなんで 実は私 私が 夢見た世界につながる 唯一の道 つまり 持久系が苦手という構図自体を変えるという道をひたすら これまで歩いては来てると追うのは 最近はっきりしてきているようです。

 

 

ただ レース中に感じた通り 宮塚さんのいう ”ただそれだけの事” 私のように 持久系が苦手な人間に取っては 果てしなく遠い道のようなんですよねショボーン で 今回 私より持久系が得意な人間たちが つぶれまくり 歩きまくってる中 一人だけ 走り続け 今回の私のペースで 届く奴らは すべてぶち抜いていっているというのに タイム的には コンディションがかなりタフだったとはいえ 過去最悪 確かに 私に必要な過程を今くぐっていっているとはいえ 持久系自体が苦手な人間が 得意な人間たちすべてをぶち抜いていこうと思ったら 歩かなきゃいけない 道の果てしなさを 改めて 実地で思い知らされて それですごく 苦々しく感じたようです。

 

で 今日 この想いが頭をよぎった時 ふと思ったんですが 実は こういう見方である必要は どこにもないという事だったんですよね。 

 

英語圏では グラスに 半分水が入ってるときに もう半分しか残っていないと取るのか まだ 半分も残っている と取るのか  そこが分かれ目みたいな表現をよく使うんですが 私の状況も 同じことのように思うんですよね。 確かに 私の目指している世界には まだ果てしなく遠いわけなんですが 私がすでに歩いてきた道。 これも すでに 果てしない道であったことも 間違いないことではあるんですよね。 ならば そちらのことを もっと誇ってもいいんではないか。 そう思いました。

 

故 コービーブライアント選手が 引退スピーチの最後に 自分の娘さんたちへのメッセージとして 

”朝早く起きて 努力を積む。 夜遅くまで起きて努力を積む。 もう疲れてて 何もしたくないんだけど それでも努力を積む。 そういう瞬間全て それが ”夢”というものなんだ。 夢というのは 終着点のことでは無く そこに至る旅路すべての事なんだ” 

 

と語られてたんですが 確かに 終着点としての ”夢’にはそんなに意味はないように思うんですよね。 オリンピックのメダリストとかでも とったメダル どこにあるかも知らず 今はもう 見る事もないって言ってる人 かなりいるようですし。

 

電車の旅と考えてても 終着点につくことだけが頭にある人にとっては そこまでの旅路って無駄なもので イライラしてる人までいるかと思うんですが そこにいたる 車窓のうつりかわりとか  旅路すべてを楽しめる人もいるわけで そこに至る次時間の充実度って そのひとのとりかたで すごく変ってくると思うんですよね。

 

で これが 夢という旅路となると ものすごく時間がかかるわけですし ( コメディアンの江頭さんが ”中々かなわないから 夢なんだ” と語られてましたが 私も 直ぐ届いてしまうなら それはたんに ”目標”であって ”夢”ではないように思います) 様するに その夢を追いかけてる時間が 人生そのものになるかと思うんで 先ばかり急いでいてはもったいないように思うんですよね。 まあ 夢なんか目ざしてれば 自分をどんどん変えていかなければそこにはたどり着かないわけで 要するに みえる車窓の風景も どんどん変わっていくものなんで もっとそういう変化を 楽しむという 心の余裕があっていいものなんじゃないないかと 今日ふと思いました。 なので 歩かねばならない 道の果てしなさを嘆くのではなく、 その道すがら 通り過ぎる 成長の過程を楽しむ。 そうい心持ちで 取り組んでいこうと 思っていますニコニコ