こんばんわー。さて今日はクリスマス。 NZ  では この日は日本の元旦のように 家族と過ごす一日なので さすがにガチでトレーニングしてる場合ではないんで久しぶりの休息日ととらえてるんですが 今 私の取り組んでること 別にスイム バイク ランに出掛けなくても探せることなどいくらでもあるんで 隙を見てはそんな探求にいそしんでいました    ニコニコ


このことは何度かもう書いてますが き今年の日本への旅行の際 行く前から 弟が是非私に会わせたいひとがいるといってました。


でその人が来月 NZに治療の旅に招くことになった  鍼灸を元にした律動法というものの療法院を営む青木さんという方だったんですがその体にすらほとんど触れずに体に変化を引き起こせる施術に驚かされ 一体どんな訓練を積んだのか その時きいてみたんですよね。


でその時の答えが 彼が師匠にやらされたことというのが まず脱力で立つこと、 そして脱力で歩くことという正直全く予想はしていなかったものだったんですが ただこれまで運動絡みで調べてきたことが 不思議とすべてそこ つまり"脱力"に集約していってたんで特に驚きはしなかったように記憶しています。


ただまあ全くの予想外の答えだったんで  脱力という世界の奥行きというかそういうものを 改めて感じさせられる出来事だったんですが、 今日ふと思ったのは じつは青木さんの言葉私が半年ほど前 認識していたことよりはるかに大きな意味をもつんだろうなーということだったんですよね。


というのも 青木さん 師匠のもとで10年以上は修行されたそうで その上でこの話されてたわけなんでこの脱力で立ち 歩く訓練 それなりの意味があったからこそ こういう話されてたんだろうとおもうんですよね。


そういえば  先日ある人のブログで "大和の姿勢講座"なるものに関して、こういう文章見かけたんですが 


"1年立ち続けてやっと

"レベル4   歩法"が始まりました。


1年立ってやっと

"歩くために体の中で起こる動きが

身につけられる体になった"

ということです笑


 こういうのだって 一年立ち続けるだけの価値があったものがみえてるからこそ こういう書き方になるのかと思うんですよね。


さらには先日見つけた "氣の威力"という本の抜粋の中に  千代の富士関の肩の脱臼癖の治癒に 氣の治療で当たられたという 合気道家の藤平光一という方が 氣を出す条件 の一つとして "全身の力を完全に抜く"ということをかかれてて これがおそらく皆さんが練習している"脱力で立つ"ことかと思いますし こういう話会わせると脱力で立ち 歩くこと。 この時点で既にとんでもない深みのあるはなしなんだろうと思うんですよね。


で赤ん坊は まず立ち そして歩き その上で 走るという動作を覚えるわけ何で 恐らく脱力で走るとか漕ぐ 泳ぐというのは現実的に まず脱力で立ち 歩く  ここが見えてこないと本当の意味では見えてきようがないことにおもえてきてるんで 最近は暇さえあれば 脱力で立ち 歩く研究をするようになってきています。


 まあでも 実は昔から脱力で立ち 歩く研究自体は やってはいたんですが 最近 ここに書いたような情報が立て続けに入ったんで より自信を持って 本腰いれて取り組むようになってきたという感じかと思います。


近年 合気道の塩田剛三師  の残された動画を見続けてきてるんですが そになかで塩田師がよく言われてるのが  "自分の力はいらない" ということで 最近この言葉がすごく気になるようになってきてるんですよね。


まあ私が長いこと追いかけ続けてきた 脱力で動くという世界 此れは論理的に考えれば この "   自分の力はいらない"という世界に繋がっていくのは当たり前の話かと思うんで これからも より深い "自分の力は要らない"という世界をつきつめていくことになりそうですニコニコ