晴れ。36度の猛暑日。
昨日読み始めた「龍華記」。すごく面白かった。
今まで、治承・寿永の乱における南都焼打ちについて、自分は平家の重衡の視点から東大寺や興福寺が燃え上がるのを見ていたと思った。
当時、強風に煽られて焼かれた奈良の寺院も民家も大変な被害を受け、貴重な大伽藍は大仏も含めて焼け落ちて、大仏殿の上に避難していた人々(平家物語では千余人としている)は焼死し、犠牲者は三千人以上におよんだ。
この本は、平清盛が権勢を誇り、重衡が総大将として南都を焼き打ちするところから、平家の都落ち、滅亡、そして捕らえられた重衡を鎌倉から請い受けて処刑するまで、一貫して南都側の興福寺の視点から、僧兵である主人公を中心に描かれる。
そして、主人公が、焼き打ちでみなし子になった数人の子供達の面倒を見ることになり、子供たちに救いの手を差し伸べた平家側の娘(重衡の養女)と接したり、被災した仏像の修復や新造に力を尽くす仏師運慶(運慶と言えば精神的な無著・世親像が思い浮かぶが、この作品中ではかなり粗野)の世俗を離れたエネルギーに触れたりなどして、彼が武力や権力による被害と報復の際限の無い繰り返しの世界から抜け出すに至るまでを描いている。
それは、仏教で言う輪廻からの解脱とか悟りの世界ともちょっと違う(いや同じか?)、高貴な生まれなのに興福寺での出世コースから落とされた被害者意識は完全に捨てて、僧兵として武力をふるって自分の鬱屈を発散する世界も捨てて、栄華も栄達もない、一介の貧しい寺男として日常を暮らし続ける道だった。
つまりは様々な欲を捨てることだが、それは普通の人間にとってなんと難しいことだろう。
でも物語では、主人公がその境地にたどり着くまでが説得力を持って書かれていた。
写真は、先日行った「洋館」展の旧慶應大学図書館のステンドグラス(重要文化財)。
とても美しいステンドグラスだが、武者と女神の取り合わせだ。和魂洋才を表しているのだろうか?
