アメリカの研修と強行採決と愛国心と。 | 弁護士みなみかずゆきのブログ - ON AND ON -

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南森町の「なんもり法律事務所」の弁護士の南和行のブログです。同性愛を公言するカップル弁護士,弁護士夫夫です。
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7月11日からアメリカ国務省のIVLPという研修に参加しています。研修テーマは,「Grassroots Adovocacy for LGBTI Rights」。LGBTIの草の根の人権活動とでもなるのだろうか。


3週間,アメリカを横断して,LGBTの人権などをテーマにした講義を受けたり,各地の活動団体の人や,あるいはビジネスの現場で活動している人と会ってお話をしたり。


今日,7月15日はアメリカ国務総省,ペンタゴンに見学と意見交換である。アメリカの軍隊における同性愛者の居場所そして人権について。


ところで7月15日,日本では僕が主任をしている「君が代」不起立減給処分のTさんの裁判の日である。アメリカ研修のために主任なのに裁判に出頭できないことについて,Tさんは,とても優しく僕を送り出してくれた。Tさんは学校の先生だった人だ。僕が高校生のときに,Tさんと出会っていたらさぞや楽しい学校生活を送れていただろう。


Tさんの裁判の時間帯,僕のいるアメリカは前日の7月14日の夜で,僕は2日目の研修プログラムを終えてホテルに帰って寝支度をしながらTさんと裁判のことなどについて電話をする。そして,僕はそのまま就寝した。


日本では,そこからが7月15日の水曜日だった。僕が寝ている間に,戦争法案が衆議院の委員会で強行採決されてしまった。朝起きて,Facebookを見ると,多くの友人や知人が国会前あるいはそれぞれの町のそれぞれの場所に集って反対集会をしているようだ。気持ちが焦る。


集団的自衛権の行使により他国の戦争に荷担するようになるということはもとより,憲法という社会の秩序をいともたやすく無視し,まさに暴走する自民党と公明党による政権。「憲法という枠組みはフィクションなんですよ」と彼らは言うのだろうか。そうすると彼らの権力も憲法に基礎づけられるのだからフィクションではないか。


このような社会の中では「同性婚が・・・」「LGBTの人権が・・・」ということすら空疎に思えてしまう。もはやあらゆる意見表明が,社会的なものではなく,個人的なものにすぎなくなるのではないか,人は何を信頼して,社会を生きていけばいいのか。


「飛行機はみんなが落ちないと思っているから飛ぶ」などという俗説があるが,憲法という秩序は,社会という飛行機が飛んでいるとことを皆が信じることができる基盤だったのではないか。ところがなんと飛行機のパイロット自身が,憲法という基盤について「ただの紙切れでした」と言ってしまったのだ。


「私が飛ぶと言っているからこの飛行機は飛んでいるのですよ」で,どんだけ人々は安心して飛ぶことができるのか。


ホロホロと日本社会はほころびを露わにしていくのだろうか。


それでも日本からの怒号が夜の闇に包まれる頃,アメリカでの7月15日の水曜日が始まった。


今日の午前中の研修は,アメリカ国防総省,ペンダゴンの見学と,国防総省で働く軍人さんとのLGBTについての意見交換会であった。


アメリカ国防総省では,これまで長らくの間,同性愛者については,「それを言ってはいけないし人に聞いてはいけない」という政策をずっと続けていた。軍隊に属している人は「同性愛者である」ことを公表してはいけないし,すなわち同性愛者ではない異性愛者のフリをして生きなければならなかったし,それに違反すればクビになるおそれがあった。さらにその前は,同性愛者であることは,当然にクビになることであった。


ところが3年前,急に変わった。カーター長官になって,「同性愛者であることを言ってはいけないし人に聞いてはいけない」政策は廃止されて,国防総省のなかで同性愛者らのグループは公然化された団体となり,さらには軍隊の基地の中でLGBTプライドのイベントまでが開催されるようになった。


このことは,軍隊に属するという職業を選択した多くの人たちの心を解き放つことができた。これまで自分のことを押し殺すしかなかった人たちも,閉ざされた僕生活と息苦しかった職業生活とを,晴れやかな心で結ぶことができて,安心して家に帰ることができ,また安心して仕事に向かうことができるようになった。


トランスジェンダーについての取り組みはまだ乏しく,今,その取り組みを検討しているということである。


しかし,それでもここは軍隊である。戦争を前提とする軍隊なのである。「同性愛者でも軍人さんになれる!」「トランスジェンダーでも軍隊に入れる!」ということで,めでたしめでたしなのだろうか。


意見交換会に先立って,僕たちはペンタゴン見学ツアーに案内された。過去の将軍たちの功績をたたえる展示があり,南北戦争,第一次世界大戦,第二次世界大戦,朝鮮戦争・・・とアメリカの戦争での成果と業績が華々しく展示されていた。ガイド役の若い軍人さんは,僕たち日本からの見学者を,ピッタリとした制服にピカピカに磨いた靴で,誇らしげにいろいろな説明をしてくれた。


そして,2001年9月11日の同時多発テロでアメリカ国防総省本部,すなわちこのペンタゴンに,アメリカン航空77便が突入した場所に案内された。その日,この場所は,ビルの改修工事のために通常の執務よりずっと人が少なかったので被害が少なくてすんだということだった。ビルの復旧には2年間を予定していたが1年間で復旧できたそうである。


その場所の廊下には,アメリカじゅうから送られた,パッチワークキルトの壁掛けが飾られていた。キルトを構成するモチーフは,ほぼ全てがアメリカ国旗であったり,アメリカ国土の地図であったりを模して「アメリカは立ち上がる」とか,「アメリカは一丸となって戦う」とか,「アメリカは負けない」とかそういうメッセージが書いてあった。


ただ僕が見つけた限りで,ひとつだけ深緑色の1片だけが,丸い地球を描いて「ピース(平和)」というメッセージが書かれてあった。


そして,追悼室にたどりつく。暗い照明で,おごそかである。突入した飛行機に乗っていて亡くなった人,ペンタゴンのビルで仕事をしていて亡くなった人,すべての人の名前が刻まれている。ただし,ハイジャックした人の名前は刻まれていないとのことである。


ここに名前を刻まれている人たちは,まさに戦争に巻き込まれて命を落としたのである。自分の事情ではなく,国の事情で命を落としたのである。家族はどれだけの悔しさを思うだろうか,あるいは本人の無念はと。理由なく人が亡くなること,大きな「世間の事情」のせいで命を失うなんて。


そこで亡くなった人たち一人一人のことを思うと,いたたまれない気持ちは止まず,記帳ノートには,その前に書いてあった人の言葉をまねて「安らかにおねむりください」のような言葉と名前を書いた。


だけれど,戦争で亡くなった人たちはもっといる。少なくともここに刻まれた人たちはほんの一部に過ぎない。


沖縄戦で,広島の原爆で,長崎の原爆で,大阪大空襲で,東京大空襲で亡くなった人たちのことを,この国,アメリカという国は哀悼しているのだろうか。


アフガニスタンやイラクや,そのほかの国で,アメリカの軍隊によって亡くなった人たちにのことを,アメリカは哀悼しているのだろうか。


アメリカで命を落とした人も,アメリカによって命を落とさせられた人も,みな同じ命ではないか。いや,アメリカという国の「愛国心」のもとでは,アメリカ人の命とアメリカ人ではない人の命とは,全く価値が異なるのかもしれない。


学校の卒業式で,教員として職務命令で起立斉唱と言われても,「君が代」で起立斉唱できないというTさんの気持ちがとてもわかる気がする。


「国を愛せ」ということは,命を引き替えにしろというのに同じなのではないのか。命をかけて守るのが「国」であるというのが「愛国心」の答えなのではないか。「愛国心」という忠誠を誓った者の命は,忠誠を誓わない者,あるいは他国の人の命よりも大切にされるのである。


「愛国心」があるから,自分と同じ「愛国心」を持たない者に対しては銃を向けることもできるし,時には殺すこともできる。そして,その目に見えない「愛国心」を形に表せばわかりやすく「君が代」と「日の丸」であろう。


アメリカには天皇はいない。歴史と伝統も乏しい。だからこそその「愛国心」は次々とその内容を変えて,時代ごとの人々の意識のトレンドへと,「愛国心」自身の中心軸をずらして,どんどん拡大し,「愛国心」で結ばれた共同体意識を培ってきたのだろうか。


日本で憲法違反の戦争法案が強行採決された日,私は,同性愛者の権利を勉強するために,アメリカ国防総省の見学と意見交換に参加した。複雑な思いはぬぐいされず,そして,やはり強く思うのは,戦争はダメだということである。


人が人の命を奪うことを肯定して良いだろうか。国と国の事情があるのかもしれないが,しかしそれも,煎じ詰めれば人の営みである。そして戦争で一瞬にして奪われる命にはそれぞれ人の営みがあり,家族や友人や恋人,あるいは天涯孤独であったとしても,自分自身の美しい日々があるのである。


戦争だから,国の決めたことだから,とそれによって人の命が奪われることがどうして肯定できるのであろうか。