聖書を理解する 138号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

⦿疑問点➡同じ神様を信じているのに

⦿考察➡イエス様は12人の弟子を選びました、その一人は裏切りました、裏切りのユダと呼ばれています、名誉なことではありません、イエス様を銀貨30枚で売ったと言われています、イエス様を十字架に売り渡したということです、このブログを読んで気分を悪くされる人もいるようです、どうしてもパウロの福音が正しいと信じている方もいると思います、私個人はパウロはイエス様の後から来たニセの教師だと書いています、パウロの福音はパウロ自身が呪いをかけています、パウロ以外の福音に呪いをかけたのです、つまり自分の福音は正しいが他の福音は「呪われよ」となっています、イエス様の福音にも呪いをかけたのです、いつの間にかパウロの福音が世界に広まり(伝道され)ました、イエス様は罪人ではありませんが、イエス様は裁判を受けて罪があると判断されました、イエス様の罪は神様を冒涜しているという罪です、神様を冒涜しているので死刑(十字架刑)となりました、真実はイエス様を冒涜したのが十字架刑です、それらの事実を偽証してパウロはイエス様の死はいけにえの死であると伝道しました、いけにえの制度は旧約聖書では正当化されますから、自分の罪を動物に背負ってもらうことは知識として知っていたのですから、信仰として受け入れられました、それでも事実は違います、いけにえは清い傷のない動物を代価としてささげることです、イエス様を傷つけて殺したことと、いけにえの儀式はまったく異なる行為です、祭司もなくローマの処刑方法で殺したのですから、いけにえとして成立はしていません、ユダヤの民は今でもイエス様がメシアだと信じていないそうです、メシアがまだ来ていないという信仰です、ですからユダヤの民は新約聖書は受け入れないとなっています、聖書の構造はユダヤの民がメシアを受け入れて世界が変わるとなっています、ユダヤの民は世界に離散していることになっていますので、世界の人がイエス様を受け入れることが大事だとも言えます、ユダヤの民と異邦人という選別は消えて純粋なユダヤの民はいない、混ぜこぜの世界になってしまった、イエス様の教えもパウロが来て混ぜこぜとなった、イエス様が身代わりとなって人々の罪を背負って十字架で死なれたという教えはキリスト教の信者には受け入れられていますので、この教義が変わることは無いと思います、イエス様を釘づけにしたことを懺悔せよとは聖書には書かれていませんが、イエス様を信じるならばイエス様が身代わりに死んでくれる教えでは共に生きることは出来ません、イエス様と共に生きるのが聖書の最大のテーマなのです、どちらかが死んでどちらかが生きるというのは聖書の信仰とはなりません、イエス様が十字架で死んで罪が許されるという教義は共に生きるという信仰ではないのです、自分が罪人で助からないからイエス様に身代わりに死んでもらう信仰では、どんなに逆立ちしても助かりません、イエス様の教えはどんなに苦しくても最後まで耐え忍びとなっています、身代わりは無いのです、自分の罪は自分で背負うしかありません、イエス様の福音には身代わりは無いのです。