聖書を理解する 121号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

⦿疑問点➡神様の言うことを聞かないのが罪です

⦿考察➡アダムとエバの時から人は神様の言うことを聞かないので罪人になってしまった、新約聖書からはイエス様が救いの神様として人はイエス様の言うことを聞くように命じられています、ところがイエス様の言葉よりもパウロの教えを信じていますので、結果は神様の言うことを聞かないとなります、自分はキリスト教会に行ってイエス様を信じていると思っているのですが、実はパウロの福音を信じているので、毎日毒麦を食べていることになります、毒麦を食べても死んでいないのは神様の審判が下っていないからです、イエス様が天から下って来て審判をすると約束されているのが聖書です、聖書は約束の書ですから神様が約束を守るかどうかも含めて人の信仰とはイエス様だけを信じて最後まで耐え忍びなさいということです、人は罪を犯したので罰を受けることはあります、すべてが罰とは限りませんが、この世には試練があるとなっています、聖書にはヨブという正しい人が登場して大いなる災害に遭うのですが、正しい信仰をしていても災害を受けることもあります、災害を受けても神様からの恵みはありますので、神様を呪って死ぬことだけはやめた方が良いです、ヨブの奥さんは「神を呪って死になさい」とヨブに言っています、ヨブは正しい人でも奥さんも正しいとは限りません、家族でも信仰は違いますので気を付けなければなりません、私が産まれた環境ではイエス様を信じる人はいませんでした、おじさんでキリスト教会に通う人はいましたが、信仰をすすめられたことはありません、間違った信仰をしている親戚でも言葉をかけることも出来ません、人は神様ではありませんから人を救うことは出来ません、イエス様が救い主ですと公言することは出来ます、ただしややこしいのはイエス様を信じているといいながらパウロを信じているのがキリスト教徒なので問題は複雑なのです、信仰している人に信仰の間違いを指摘するのは無理なので、そのままにしておき、最後の審判でイエス様に任せるという信仰が示されています、自分の信仰が正しいかどうかも最後の審判を待たなければなりませんから、信仰の争いはしない方が良いです、信仰者どうしが争うのは良くないです、最後の審判があるので、それまでお互いに待つという姿勢です、皆さんの中にもこのブログに同意出来なくて気分が悪い方もいると思いますが、イエス様の言葉を聞けばイエス様の後から来る者の教えには警戒しなければなりません、うまい教えを受け入れて食べて死ぬことのないようにイエス様は教えて行かれました、イエス様の言葉を聞かないことが罪なのですから、何度申し上げても罪は罪です、パウロを信じることは罪なのです、イエス様を信じることが救いであり福音なのです、パウロを信じて救われるという律法は無いのです、とても単純な教えなのですが、頭の固い人には理解出来ません、パウロがどんなに正しいと思っても聖書の構造はイエス様だけを信じて救われるのです、イエス様以外の福音を信じたら罪となるのです、不法を行う者は自分では正しいことをしていると言うのです、だからこそイエス様の裁きがあるのです、自分を正しいとする者を裁く神様がいないと裁きになりません、最後の審判でキチンとしていただくからこそスッキリするのです、それまでは待つという信仰です、イエス様を待つという信仰があります、来たりませイエス様。