聖書を理解する 87号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡天国に行けるか

●考察➡本日は自分が天国に行けるかどうかの考察です、聖書ではイエス様を信じる者は救われて天国に行けるのです、地獄に行きたいと思う人はいないと思うのですが、ふざけている人もいますから天国や地獄の存在に関心が無い人もいます、キリスト教徒であるクリスチャンはおそらく自分は天国に行けると信じていると思われます、自分は救われたと信じていますので、まさか天国に行けないとは夢にも思わないでしょう、イエス様を信じる者と教会の教えを信じる者はまるで違うとここでは書いています、イエス様を信じるとはイエス様に「ゆだねる」こと「任せる」ことです、たとえば大切な物を落としてしまった時に自分で探しても見つからない、どこに落としたかも分からない場合にイエス様を信じる者はイエス様を信じて任せることになります、イエス様なら何とかしてくれるという信仰です、その場合に見つからないという結論もあるのです、失った物が見つかって欲しいのは当然なのですが、出て来ない場合もあります、出て来なくてもイエス様を信じたので良かったとなります、家族や親しい人が死んだ場合も同じです、病気の時も同じです、皆が健康で死なないという状況にはなっていません、死ぬか生きるかをイエス様にゆだねるという信仰になります、天国に入れるかどうかもイエス様にゆだねた人がイエス様を信じる人です、イエス様を信じたら天国に入れると信じた人は入れないのです、イエス様を信じたら健康になれるとか、イエス様を信じたら資産家になれるとか、そんなことは何もありません、イエス様を信じても何が起きるか分かりません、何が起きてもイエス様を信じて耐え忍ぶという人生です、イエス様を信じているので天国に入れると信じている人はイエス様を信じているのではなく、自分が天国に入れることを信じているのです、自分がどうなるかはイエス様が決めるので、イエス様を信じるならば、イエス様に任せます、イエス様の御心通りになりますようにと日々生きるだけです、イエス様が自分をどうするのか決めてくれるのです、誰でも天国に入りたいのですが、天国に入れるかどうかはイエス様が決めるので自分ではどうにもなりません、イエス様にお願いすることは出来ますが、イエス様が申していないことを信じて天国に入ろうとするのはいけません、パウロの福音を信じて天国に入るのは無理です、パウロ信仰では天国には入れないのは確実です、イエス様がハッキリ申していることはそのまま伝えても良いのです、先生はイエス様だけ、パリサイ派のパン種(教え)にはよくよく警戒し、イエス様の後から来た悪魔の教えにはつまづかないことです、聖書はつまづきの石を置いて、人をふるいにかけているのです、悪魔は人をふるいにかけることを許されているのです、人がつまづく教えを広めるのは許されているのです、良いイエス様の教えと毒麦のパウロの教えがあるのが聖書です、どちらを食べて生きるのか、どちらを食べてつまづくのか、大いなる試しがあるのです。