日月神示を繰り返し読む 2024年06月12日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

日月神示 龍音の巻

この巻は龍音の巻です、続く五の巻は極(きわみ)の巻、六の巻は至恩の巻、七の巻は五葉の巻です、この五十(いせ)黙示の七巻は神と人と共に与えたものです、一巻から続いたものです、同じ意を持つものが天国にもあるのです、合わせて三十巻、これで岩戸までの神示の終りです、前に出した黄金の巻からの七巻は人民に与えたものです、言(こと)やめて草の片葉も陽に伸び行かな、八十(やそ)隈手行きにし神は今かえります、素盞鳴の命しらせる海原ぞやよ、天ヶ下おつるくまなく照らす大神、高低(たかひき)の伊百理(いおり)かきわけきこし召すらむ、罪と言う罪はあらじな神の子なれば、ひふみ百千万(ももちよろず)と咲(ゑ)ます元つ太神、八十伴男(やそとものお)百(もも)足り足りて仕えまつらむ、行く水に清めて仕う極みの宮殿(みあらか)、言霊の栄ゆる御歌にはらいてましを、みそぎして祝う生命(いのち)ぞ弥栄ましませ、安国の瑞穂(みづほ)の国と御(しら)し給いぬ、八重雲の十重雲千別き千別き天降(あも)りぬ、千木高知り美頭(みづ)の御殿(みあらか)咲(え)み仕へなむ、許々太久(ここだく)の罪はあらじな大岩戸あく、四方の国咲(え)み集うらし真中の国に、よしあしき皆はらひませ科戸(しなど)の風に、八束穂(やつかほ)の十束穂(とつかほ)とこそ実らせ給え、みかのはらみて並べてぞ天地(アメツチ)の座に、御服(みそ)輝(かが)し明妙照妙和妙(あかてるにぎ)風のまにまに、巫(かむなぎ)の大御心のまま弥栄えむ、千木千木し瑞の御舎(みあらか)仕えまつらむ、御宝前(おんまえ)に宇豆の幣帛(みてくら)たたえまつ栄、大神の咲(えみ)に弥栄ゆ生国足国(いくくにたるくに)、狭(さ)き国は広く峻(さか)しき国は平に、日のみかげ百島千島おつるくまなく、青雲のたなびく極み座(し)きます宝座(みくら)、甘菜辛菜(あまなからな)地の極みまで生ひて尚生ゆ、見はるかす四方の国みなえらぎ賑わう、世界中が霊かかりになると申してあるのは今のことです、霊にかかっている世界自身が分からなくなっているのです、サニワしなければなりません、サニワの方法を書いて知らせます、世界を日本を自分をサニワしなければなりません、目に見えない所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり暗示的となるものです、ドタンバタンと大声でどなり散らすのは下の下、神もフトマニに従わなければなりません、順を乱すわけには行かないのです、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならないのです、下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるのですからその感応は極めて強く、いかにももっともらしく人民の目にうつるのです、高度のものは、その人民のミタマの如何(いかん)によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのです、特別の使命を持つ天使は、最下級の霊界にまで降って来て、人民に特別な通信をなして指示することもあるのです、また天使の霊が母体に宿り、人民として生れて来る事もあるのです、末世にはこの種の降誕人が沢山あるのです、霊界と申しても神界と幽界に大別され、また神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人が住み、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とがいるのです、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性を持っているのです、高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界も無いのですが、人民の頭で分かるように申しているのです、幽界は本来は無いものなのです、人民の地獄的想念が生み出したものなのです、幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊かかりのほとんどはこの幽界からの感応によることを忘れないでください、霊かかりの動作をよく見極めればすぐ分かるのです、高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは必ず下級霊です、インチキ霊なのです、インチキ霊にかからないでください、たとえ神の言葉でも尚サニワしてください、迷信であってもそれを信じる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界の一部を作り出すことがありますから気を付けておきます、無き筈(はず)のものを生み出し、それがまた地上界に反影して来るのですから心してください、今の人民の九分九厘は幽界とのつながりを持つのです、胸に手を当ててよくよく自分をサニワしてください、霊的良識は神示や神典類によって、また体験によって養われ、また高度な科学書も参考となるものです、科学を馬鹿にしてはなりません、幽界の霊であっても高度のものともなれば、神界の高級神霊と区別することが難しいのです、初歩のサニワの誤りやすいところであり、また霊眼する者の誤り易いところですから注意しなければなりません、例えば霊光の如きものも強く大きくて中々にサニワ出来ないのです、仙人と申すものは如何に高度なものであっても、それは幽界に属すのです、仙人界には戒律があるからです、神界には戒律はなく、戒律のある宗教は亡びるのです、誠の宗教には戒律はないのです、しかし神界にも仙人的存在はいるのです、龍体を持つ霊は神界にも幽界にもいるのです、龍体であるからと申して神界に属すると早合点しないでください、多くの場合霊界に住むものは自分の住む霊界以外のことは知らないのです、その霊界が総ての霊界であるかの如く思うものです、同じ平面上につながる霊界のことは大体見当つくのですが、段階が異なって来ると分からなくなるのです、他の霊界は霊自身の持つ感覚の対象とならないからです、人民界のことを良く知っている霊は、人民界を去って間もない霊か、地上世界に長く住んでいた動物霊か、人民に憑依していた霊です、特別な使命を持つ天使は別として、人霊以外の霊で人民に憑依するのは、日本では天狗的、神的、仙人的、キツネ的、タヌキ的、ネコ的などが大部分ですから気をつけおきます、人間の肉体に他の霊が入って自由にしているのだと、多くの霊覚者やサニワが信じているのですが、事実そう見えるのですが、それは誤りです、人間の肉体は原則として真理の宿り給う神の生宮ですから、下級霊は中々に入ることは出来ないのです、例外はあるのですが、肉体霊、外部霊、副守護霊等の想念は、時によって動物的、幽界的となるものですから、それと同一波調の動物的霊が感応するのです、感応はするが肉体の内部までは入り込めないのです、しかし感応の度が強ければ入ったと同様に見える状態となるのです、先祖霊も大体同様です、霊には物質は感覚の対象とはならないのです、霊には人間の肉体は無いのと同じです、祖先霊に化けて何かを企てる動物霊が多いので注意してください、動物霊がなぜ祖先のことを知るかと申せば、その憑依の対象となる人間の肉体霊の知っていることを、直ちに知り得るからです、動物霊が人間の言葉を使うことは腑に落ちないと申す者が沢山ありますが、良く考えて見てください、例えば他人の家に入って、そこにある道具類をそのまま使うのと同じ道理です、分かりましたか、動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、その人間の持つ言葉をある程度使いこなせるのです、故に日本人に感応すれば日本語、米人であれば英語を語るのです、今の偉い人民がこの神示を読むと、理屈に合わない無茶苦茶な文章であるから、下級霊の仕業だと判断するのですが、それは余りにも霊界の事を知らない霊的白痴であることを自分で白状しているのです、気の毒なことです、ましてこの神示は八通りに読めるのですから、いよいよ分からない事になるのです、時には例外として人間の魂と動物の魂と入れ替っていることもあるのです、この場合は肉体に入り込んだと考えてよいのです、この様な場合、例えばそれが狐ならば狐の様相を露呈しますから、誰にでもすぐ分かるのですが、悪行を積んだ霊ともなれば、巧みにその時代々々の流れに合わせて化けていますから、中々見破ること難しいのです、心得てください、ある種の霊は、自分自身は高度な神界に住んでいると誤信しているものもありますが、こうした霊が感応した場合は自信を以って断言する場合が多いのです、人間が知らない世界のことを、自信を以って強く告げられると、多くのサニワは参ってしまうのです、幽界霊も時により正しく善なることを申すのですが、それはただ申すだけです、悪人が口先だけで善を語るようなものです、良いことを語ったとしても直ちに善神と思ってはならないのです、良い言葉ならば悪神が語ってもよいではないかと申す人もいますがそれは理屈です、甘ければ砂糖でなくサッカリンでも良いではないかと申すことなのです、真の善言真語は心、言、行一致ですから直ちに力するのです、言葉の上のみ同一であっても、心、言、行が一致していないと力が出ないのです、偽りの言葉は、落ちついて聞けばすぐ分かるのです、同じハイと言う返事でも、不満を持つ時と喜びの時では違うでしょう、我は天照太神なりなどと名乗る霊にロクなものはないのです、大言壮語する人民は眉唾ものです、サニワは場合によって霊媒を誘導しても良いのです、また霊に向って常に愛を持って接しなければなりません、誰でも絶えず霊界とのつながりがあり、霊界からの呼びかけがありますから、サニワはそれを助け導くように努力しなければならないのです、はじめに出て来る霊は殆ど下級霊です、玄関に先づ出て来るのは玄関番です、祖霊の出る場合は何か頼みたい場合が多いのです、浄化した高級霊ともなれば、人民に分かるような感応は殆どないのです、霊の要求だと申してもそのまま受け入れてはならないのです、よく判断した上で処理しなければなりません、下級霊、動物霊の場合は酔いどれのように箸にも棒にもかからないことを申すものです、特にその霊が病気に関連を持っている場合は微妙ですからよく心得てください、悪い企て、悪い行為だとしても直ちに決めつけてはなりません、やんわりともちかけて善きに導かなければならないのです、悪を嫌う心があってはならないのです、悪を抱き参らせてくださいと申してあるでしょう、邪道的要求を受け入れて一時的に病気を治すと、それに倍してブリ返すのです、この呼吸が大切です、霊に日月神示を読んで聞かせて見てください、その偉大さがハッキリ分かるのです、どんな下級霊であっても、その霊を馬鹿にしてはいけないのです、馬鹿にすると反射的にサニワを馬鹿にして始末に負えないことになるのです、霊覚者や行者の中には奇跡的なことや非常識な行動をする者がよくあるのです、一般の人民はそれにだまかされることがよくあるのです、何れも下級霊の仕業です、正神には奇跡はないのです、奇跡ないことが大きな奇跡であるのです、奇跡するものは亡びる、高級霊は態度が立派です、分かりましたか、霊の発動を止めて静かにする法は「国常立大神守り給え幸(さき)はえ給え」と三回くり返すこと、又「素盞鳴大神守り給え幸はえ給え」と三回くり返すこと、又は「太日月地大神守り給え幸はえ給え」と三回くり返すこと、世界そのものの霊かかり、日本の霊かかり、早く鎮めないと手に負えない事になるのですが、見ていてください、見事な事をやって見せるのです