日月神示を繰り返し読む 2024年06月11日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

 

日月神示 星座の巻

この巻は星座の巻です、偶然と申すのは宇宙世界、星の世界の必然からのものであり偶然ではないのです、天に星があるように地には塩があるのです、塩コオロコオロにかきならして大地を生みあげたように、ホシをコオロコオロにかきならして天を生みあげたのです、天の水、地の水、水の中の天、水の中の地、空は天だけにあるのではないのです、地の中にもあるのです、天にお日様があるように地中にも火球があると申してあるでしょう、同じ名の神が二つあるのです、大切なことなのです、ナルの仕組みとは成十(七る十)の経綸です、八が十になる岩戸(言答)がひらく仕組みです、今まではなかなか分からなかったのですが、時節が来て岩戸が開けて来たので見当がつくでしょう、富士(二二、普字)と鳴門(ナルト、七る十、成答)の仕組みを結構に致してください、時、時と申してありますが、時間ではないのです、神(カミ)幽身(ガミ)にも聞かせているのです、地上の人々には時間が考えられるのですが、神界には時間がなく、神も霊人も時間は知らないのです、ただ喜びがあるだけなのです、神界で時間と申すのはものの連続と変化、状態の弥栄えの事なのです、時を待ってください、時を違えないでください、地上の人の時間と区別して考えなければこの神示は解からないのです、人民はものを言えないことになると申してあったことが近くなったのです、手も足も出ないことが近づいたのです、神が致すのではないのです、人民自身で致すということが分かって来るのです、人民の学門や知恵では何とも判断出来ないことになるのです、右往左往しても、世界中をかけ廻っても何もならないのです、分からなくても分かった顔をしなければならない時が来たのです、ウソの上塗り御苦労なのです、人民がいよいよお手上げと言うことになって、世界が行き詰ってから神のハタラキが現われるのです、日本人はびっくりするのです、日本人はいくらでも生み出されますが日本の国は出来ないのです、身体中が黄金(こがね)に光っているのが国常立大神の活動の時の御姿です、白金(しろがね)は豊雲野大神です、今の科学では分からないのです、一万年や三万年の人間の地上的学では分からないことです、国常立大神のこの世の肉体の影が日本列島です、分からないことがいよいよ分からないことになったでしょう、元の元の元の神の申すことをよく聞きわけてください、神の学でなければ今度の岩戸は開けないのです、悪の仕組み通りの悪平等、悪公平の選挙で選び出すのですから、選挙で出る者は悪に決まっているではありませんか、悪もよいのですが、悪も神の用(ハタラ)きなのですが、悪が表に出ることはならないのです、人民と申すものは生命(いのち)が短く気が短いので、仕組みが少しでも遅れると、この神は駄目である、予言が違ったではないかと申すのですが、二度とない大立て替えですから少し位の遅し早しはあるのです、それもみな人民一人でも多く助けたい神の心からなのです、仕組みが遅れても文句を言い、早くなってもまた文句を言うのです、分からないと申すものは恐ろしいものです、この世を造った太神の神示なのです、一分一厘違わないことばかりです、後になって気がついても、その時ではまるで遅いのです、この神は現在も尚太古を生み、中世を生み、現在を生み、未来を生みつつあるのです、この道理を分かってください、世界は進歩し文明するのではないのです、呼吸するのみ、脈拍するのみ、変化するのみ、ぐるぐる廻るのみです、歓喜弥栄えとはこのことです、人民は一度死んでください死なねば甦られない時となったのです、今までの衣を脱いでくださいと申してあるでしょう、世が変わると申してあるでしょう、地上界の総てが変わるのです、人民のみこのままと言うわけには行かないのです、死んで生きてください、建て替え、建て直しとは過去と未来と同時に来て、同じ所で一先づ交じり合うのですから、人民にはガテン出来ないのです、新しい世となる終りのギリギリの仕上げの様相です、白と黒とを交ぜ合わせると灰色となる常識はもう役に立たないのです、白黒を交ぜると鉛となり鉄となり銅となるのです、更に銀となり黄金となるのです、これがミロクの世のあり方です、五と五では動きが取れないのです、そなたの足許に来るべき世界は既に芽生えているのです、世の元は〇なのです、世の末も〇です、〇から〇に弥栄えするのですが、その動きは左周りと右周りです、左渦と右渦と申してあるでしょう、その中心には動かぬ動きがあるのです、何もかも人民まで変わるのが今度の大建て替え、食物も、衣類も、住居も皆変ると申している時が来ているのです、いつまでチョンマゲを頭にのせているのですか、ケンビキが今一度痛くなるのです、そのケンビキ今度は東の方です、自由も共産も共倒れです、岩戸が開けたのですから元の元の元のキの道でなくては、タマ(玉)の道でなくては立っては行かないのです、動かない二二(普字、富士)の仕組み、開けて渦巻く鳴門(ナルト、七十、成答)です、新しき人民の住む所は霊界と現界の両面を持つ所です、この岩戸を開いて二度とない九十(光透)でひらく仕組みです、地上界には山や川もあるから霊界に山や川があるのではないのです、霊界の山川が誠です、地上はその誠の写しであり、コトであるのです、マが霊界です、地上人は半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としており、互いに入り交わっているのです、このことが分かれば来るべき世界が、半霊半物、四次元の高度な影の無いうれしうれしの世ですから、人民も浄化の行をしなければならないのです、大元の道にかえり、歩まなければなりません、今までのような物質でない物質の世となるのです、父のみ拝んだだけでは足りないのです、母に抱かれなければ、母の乳をいただかなければ正しく生長出来ないのです、一神として拝んでも足りず、二(柱)でも一方的、十万柱としても一方的なのです、マイナスの神を拝(おろが)まねばならないのです、マイナスの神とは母のことです、天にまします父のみでは足りないのです、天にあれば必ず地にもあるのです、一即多即汎、地即天、天即地から表即裏であるのです、誠を行じてください、目から泥を洗い去ると見えて来るのです、右の目ばかりではならないのです、左の目の泥も落してください、泥のついていない人民は一人もいないのです、泥を落とすには水が良いのです、世の元からの真清(詞)水で洗い落してください、世の元の元の元の真清(詞)水は結構です、十二人が一人欠けて十一人となるのです、その守護神を加えて二十二柱、二十二が富士です、真理です、また道であるのです、今までは四本指八本指で物事をはかって誤り無かったのですが、岩戸が明けたので親指が現われて五本十本となったのです、このことは良くわきまえてください、偽の愛、偽の知と申すのは、神を信じない人民の愛と知であることを知ってください、この人民達は神の声を聞いても聞こえず、神の現われを見ても見えないのです、目を閉じて耳に蓋(ふた)をしているからです、今の人民も学者も金持ちも早く考え方を変えなければ間に合わないのです、心の窓を早く開いてください、土の饅頭と申してあるでしょう、土は食べられるのです、土から人民を生んだのです、ウシトラコンジンの肉体は日本の土であると知らせてあるでしょう、土に生きてください、地は血(智)であり、素盞鳴命様です、その土が生長して果ての果てに皮を脱ぐのです、それが地変です、天人が人民に語る時は、人民の中に来て、その人民の持つ言葉で語り、文字を使うのです、自分と自分と語る如くになるのです、天人同士の文字は数字が多いのです、夜明け前になると霊がかりがウヨウヨと勝手放題に混ぜくり返すのですが、それもしばらくの狂言です、人民はものを言わなくなるのです、物が今までのようにものを言わなくなり、誠の世となるのです、天人の言葉は誠ですから、ただ一言で万語を伝えることが出来るのです、言葉の生命(いのち)は愛であり真ですから、真愛から発しない言葉は誠の言葉では無いのです、子音と母音と組み組みて父音の気を入れて始めて言葉となるのです、今の人民の言葉は言葉ではないのです、日本の古(光)語が誠の言葉です、言霊です、数霊と共に弥栄え行く仕組み、人民が正しく言葉すれば霊も同時に言霊するのです、神も応答するのです、始め言葉の元があるのです、ムムムムムウウウウウゝゝゝゝゝアと現われるのです、神の現われです、言葉は神を讃えるものです、誠を伝えるものです、共に鳴り共に栄えるものです、言葉は生まれ出るものです、先づ言葉されて歌となり文章となり、また絵画となり彫刻となり建築となり、また音楽となり舞踊となり、あらゆる芸術の元となるのです、神に通ずればこそ、愛であり真であり善であり美であり喜びであるのです、喜び無きものは芸術では無いのです、今の芸術は死の芸術、魔の芸術なのです、アとオとウとは天人の言(コトバ)、アとエとイは天使の言(コトバ)、人民に与えられた元の言(コトバ)です、五柱の元つ太神が十柱の夫婦神と現われ十柱の子(みこ)と交わって五十神と現われるのです、故に五十神の中の三十二神は新しく生まれるのです、更に二十七神とはたらき、また二十五有法とはたらくのです、二二の二の五つの今開けて、よろづ因縁の出る時が来たのです、天の理が地に現われる時が岩戸開けです、日本の国が甘露台です、歓喜に裁きのない様に神には裁きは無いのです、裁きを説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるのです、戒律や裁きは低い段階であり過去の部分的一面に過ぎないのです、裁きを説くのは自分で自分を裁いていることです、人民に罪は無いのです、手長手伸(たのし)堅磐常磐(かきはときは)に祝う御代なる、生井栄井津(いくいさかいつ)長井阿須波比支(ながいあすはいき) たたえましを、底つ岩根千木岩(ちぎいわ)高く瑞(みづ)の御舎(みあらか)、四方(よも)の御門(みかど)五方(いつも)とひらき宇都幣帛(うづみてくら)を、御巫(かむなぎ)の辞竟(ことお)へまつる生足御国(いくたるみくに)、塩沫(しおなわ)の留まる限り皇国弥栄(みくにやさか)ゆ、海原の辺にも沖にも神つまります、天の壁地(くに)の退立(そぎた)つ極み手伸(たの)しき、八十綱(やそつな)を百綱(ももつな)とかけてささし給はむ