日月神示を繰り返し読む 2024年06月10日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

 

日月神示 碧玉の巻

反対の世界と合流する時に平面の上でやろうとすれば濁るばかりです、反対と合流するには立体でやらなければなりません、立体となれば反対が反対でなくなるのです、立体から複立体に、複々立体に、立立体になるのです、漸次(ぜんじ)輪を大きく広く深く進めて行かなければなりません、それが岩戸開きです、低い世界では戒律がなくてはならないのです、人民の頭で戒律と秩序と法則をゴッチャにしているのです、平面と立体とをゴッチャにするのと同じ迷いの道なのです、気をつけ下さい、病むことは神から白紙の巻物をいただいたことです、この巻物をどのように読み取るかによって新しい道がひらけるのです、神からの巻物を疎かにしないでください、気の合う者だけで和しているのですがそれでは和にならないのです、今度は合わない者と合わせるのです、岩戸が開けたから逆様のものが出て来ているのです、この行(ぎょう)は中々ですがこれが出来なければ岩戸は開けないのです、誠の神でさえ魔神のワナにかかっているのです、人民がだまされるのも無理はないのですが、いつまでもだまされていては今度の御用は成就しないのです、自分自身にだまされている人民も多いのですが、ついて来てください、少しは苦しい行もありますが見事なことを致して御目にかけるのです、自分でもビックリです、はじめからの神示を良く読んで下さい、霊かかりはよろしくないです、やめて下さいと申してあるでしょう、生命の樹、生命の水を間違えないでください、樹とはキであります、水とは道であるのです、樹と水にたとえてあるのをそのままにとるから、囚われた迷信となるのです、真の懺悔(ざんげ)とは正法をおさめることです、掃除することです、先づ御(おさ)め、次に治(おさ)め、次に知(おさ)めなければならないのです、素盞鳴(スサナル)の大神様は先づ蒼海原を御め給い、さらに蒼海之原を治め給い、次に天下(あめのした)を知め給ったのです、素盞鳴の大神が悪神とうつるのは悪がそなたの中にあるからです、七は成り、八は開くと申してあるでしょう、八の隈(くま)から開きかけるのです、開けると〇と九と十との三が出て来るのです、これを宮と申すのです、宮とは誠のことです、西と東に宮建てよと申すことはこれでよく分かるでしょう、誠の数を合わせると五と五十です、中心に五があり、その周辺が五十となるのです、これが根本の型であり、型の歌であり、型の数であるのです、摩邇(マニ)の宝珠(タマ)であります、五十は伊勢であり、五百は日本であり、五千は世界なのです、この方は五千の山、五万の川、五億のクニであると申してあるでしょう、災いと言うものは無いのです、光を忘れ光に背くから嫌な事が起こるのです、影が射すのです、禍とか悲しみとかと言う暗いものがないのが誠です、中心は無と申してあるでしょう、中心は見えないですから、分からないですから、外のカスばかり見ているから、つまらないことでつまらないことが起って来るのです、その見えない力が永遠の生命と現われるのです、見えるものは有限です、この世の大泥棒をタカヤマと申して、この世を自由にさせておいてよいのですか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えないものを掴(つか)まなければなりません、そこから正さなければ外側からばかり清めても何もならないのです、始めの日は始めの日に過ぎないのです、始めの前にあるものが分らなければ、それは只の理屈に過ぎないのです、誠ではないのです、根から出たものではないのです、枝葉に過ぎないのです、男から女は生れないのです、奇数から偶数は生れないと申してあるでしょう、一つのものの表が男で裏が女であるのです、男から女をつくったと申すのはある時期における教えです、岩戸が開けたのですから教えではならないのです、道でなくてはならないのです、道は永遠です、〇から出て〇に至るのです、四つ足を食べてはなりません、共食いとなるのです、草木から動物が生れると申してあるでしょう、神民の食べ物は五穀野菜の類(たぐい)です、今の人民の申す善も悪も一度にひらいて、パッと咲き出るのが次の世の新しき世の有様です、取り違いしないように、悪と申しても魔ではないのです、アクであるのです、大峠の最中になったら、キリキリ舞いして、助けてくれと押し寄せるのですが、その時では間に合わないのです、逆立してお詫びに来ても、どうすることも出来ないのです、皆己の心であるからです、今の内に改心結構です、神の申す言葉が分からないならば、天地のあり方、天地の在り方による動きをよく見極めてください、納得の行くようにして見せてあるのです、九分行ったら一休みしてください、始めから終りまで休まずに行くと、今の人民では息切れするのです、一休みして自分の来た道を振り返ってください、この世の世話をさせるために人民には肉体を与えてあるのです、活神(いきがみ)がしたのでは堪えられない者が沢山に出て来るからです、立て替え立て直しが一時に来ているから、我よしの人民には分からないことになるのです、この世の動きが分からないのは我よしだからです、今度の岩戸開きは五度の岩戸閉めを一度に開くのですから、人民には中々に理解出来ないことが折り重なって来ますから、何事も神の申す通りにハイハイと素直に聞くのが一等です、岩戸閉めの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命(ミコト)の時です、ナミの神が火の神を生んで黄泉の国に入られたのが、そもそもの岩戸閉めです、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのです、十二の卵を十生んだことにもなるのです、五つの卵を四つ生んだとも言えるのです、総て神界のこと、霊界のことは現界から見れば妙なことですが、それでちゃんと道にはまっているのです、一ひねりしてあるのです、天と地との間に大きなレンズがあると思えば段々に分かって来るのです、夫神と妻神が別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸が閉められたのである道理は分かるでしょう、その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのですが、それが一方的であることは申す迄もないことでしょう、妻神も同様に黄泉の大神となられて、黄泉の国の総てを生み育て給うたのです、この夫婦神が時めぐり来て千引の岩戸を開かれて相抱き給う時節が来たのです、うれしうれしの時代となって来たのです、同じ名の神が到るところに現われて来るのです、名は同じでもハタラキは逆なのです、この二つが揃って、三つとなるのです、三が道であると知らせてあるでしょう、時が来たならばこの千引の岩戸を共にひらかんと申してあるでしょう、次の岩戸閉めは天照大神の時です、大神はまだ岩戸の中におられるのです、だました岩戸からはだました神がお出ましであると知らせてあるのです、いよいよとなって誠の天照大神、天照皇大神、日の大神が揃ってお出まし近くなって来たのです、次の岩戸閉めは素盞鳴命に総ての罪を着せてネの国に追いやった時です、素盞鳴命は天下(あまがした)を治しめす御役(おんやく)の神です、天ヶ下(あまがした)は重きものが積もって固まったものであるから罪と見えるのであって、よろづの天の神々が積もると言うツミ(積)をよく理解せずに罪神と誤ってしまったので、これが正しく岩戸閉めであったのです、素盞鳴命をアラブル神なりと申して伝えているのですが、アラブル神とは粗暴な神ではないのです、あばれ廻り、こわし廻る神ではないのです、アラウル(現生る)神であるのです、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるのです、取り違いしていては申しわけないのです、このことがよく理解出来なければ、今度の大峠は越せないのです、絶対の御力を発揮し給うのです、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるのです、素盞鳴の命にも二通りあるのです、一神で生み給える御神と、夫婦呼吸を合せて生み給える御神と二通りあるのです、間違えてはならないことです、神武天皇の岩戸閉めは、御自ら人皇を名乗り給うより他に道なきまでの御働きをなされたからです、神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応岩戸に隠して神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのですから、大きな岩戸閉めの一つです、仏教の渡来までは、わずかながらも誠の神道の光が射していたのですが、仏教と共に仏魔が渡って来て完全に岩戸が閉められて暗闇の世となったのです、その後はもう乱れ放題、やり放題の世となったのです、これが五度目の大きな岩戸閉めです、宇宙の総てが高天原です、天照大神は高天原を治し、また高天原を御(しら)し、また高天原を知らす御役、月読大神は天照大神と並んで天のことを知らし、また蒼海原の汐の八百路を治し、また夜の食す国を知らす御役、素盞鳴の大神は蒼海の原を治らし、また蒼海之原を御(しろ)し、又天が下を知(し、治)らす御役であるのです、捧げるもの与えるものはいくらでも無限にあるではありませんか、奉げ捧げて、与え与えてください、言葉こそは誰もが持っている理(みち)の捧げものです、与えても与えても無くならない誠の宝であるのです、まだ〇のみを追いかけている人民が沢山あるのですが、〇では世は治まらないのです、自分自身は満たされないのです、・でなくてはならないと申しても・だけでもならないのです、・が元で内です、〇は末で外なのです、・から固めてください、〇はおのづから出来て来るのです、ふさわしい〇が出来て来るのです、今の世は開けた開けたと申していますが、それは半面だけのことです、半面が開けると半面が閉ざされる世の中です、開けっ放しの明るい世が目の前に来ているのです、用意はよいですか、真中動いてはならないのです、動くのは外です、忙しい忙しいと申すのは外側にいる証拠なのです、気をつけて早く中心に飛び込んでください、真中結構なのです、日本は真中の国であり、日本精神は真中精神、末代動かない精神です、三千世界の大掃除ですから、掃除するには掃除する道具も人民もいるのです、今の有様ではいつまで経っても掃除は出来ないのです、益々穢れるばかりです、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めてください、神が大掃除を致すのでは人民が可哀そうになるので、くどく申しているのです、頭と尻尾だけでは何も出来ない化物です、八尾八頭(かしら)の時代は終わったのです、肝心の胴体が無いのです、日本が胴体です、日本を何処に忘れて来たのか、自分でも分からないでしょう、尻の毛まで抜かれた化物の姿を鏡に映して見てください、鏡は神示であると早くから知らせてあるでしょう、五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるのです、六六六が誠のミロクの世なのですが、六六六では動きは無いのです、六六六は天地人の大和の姿であるのですが、動きが無いからそのままでは弥栄えしないのです、666となり、また六六六とならなければならないのです、新しい世の姿をよく心得てください、メクラの人民がいくら集まって相談したとしても、相談すればするほど闇となるのです、行き詰って上げも下ろしも出来ないことになるのです、総てを数だけで決めようとするから悪平等となるのです、メクラをいくら並べてみても何もならないのです、早く改心してください、新しいタマの選挙があるのです、はじめに碧玉を並べてください、次に赤玉、次に赤黄玉、次に黄赤玉、次に黄玉、次に黄青玉、次に青黄玉、次に青玉、次に青赤玉、次に赤青玉、次に紫水晶の合わせて十一玉です、この巻は碧玉の巻です、氷と水と水蒸気だと申してあるでしょう、同じであって違うと知らせてあるのです、地には地の天には天の神には神の人民には人民の動物には動物の植物には植物の、それぞれの法則があり秩序があるのです、霊界に起った事が現界にうつると申しても、そのままでうつるのでは無いのです、また物質界が霊界に反影すると申してもそのままに反影するのではないのです、総てが太神の中での動きですから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのです、それをフトマニと申すのです、太神の歓喜から生れたものなのですが、太神もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない、大宇宙の鉄則なのです、鉄則ではありますが、無限角度を持つ球ですから、いかようにも変化して誤らない、摩邇(まに)の球とも申すのです、その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄えするのです、弥栄えすればこそ、呼吸し脈拍し進展して止まないのです、このことが分かれば次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのです、百は九十九によって用(ハタラ)き、五十は四十九によって、二十は十九によって用(ハタラ)くのです、この場合は百も五十も二十も、天であり始めであるのです、用(ハタラ)きは地の現れ方です、フトマニとは二十の珠であり、十九は常立です、根本の宮は二十年毎に新しくしなければなりません、十九年過ぎて二十年目です、地上的考え方では二十年を一廻りと考えているのですが、十九年で一廻りするのです、いろは(母)の姿を見てください