日月神示を繰り返し読む 2024年06月04日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

日月神示 秋の巻

同じ神の子でも本家と分家とあるのです、本家は人間です、分家は動植物です、本家と分家は神の前では同じですが位置を変えると同じではないのです、三十年で世の立て替えを行うのです、これからは一日増しに世界から出て来ますから、いかに強情な人民でも往生するのです、神は喜びですから、人の心から悪を取り除かなければ神に通じないのですと教えていますが、それは段階の低い教えなのです、大道ではないのです、理屈の作り出した神なのです、大神様は大歓喜でありますから悪をも抱き参らせているのです、抱き参らす人の心に、誠の不動の天国が来るのです、抱き参らせれば悪は悪ではないと申してあるでしょう、今までの教えは今までの教えです、人民を土で造ったと申すと、すべてを土でこねてつくり上げたものと思うから神と人民とに分れて他人行儀になるのです、神の喜びで土をつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさせているのです、取り違いしないように致してください、親と子と申してあるでしょう、木の股や土から生れたのでは誠の親子ではないのです、世界の九分九分九厘です、あり得ないような引くことも押すことも出来ない事がいよいよ近くなったのです、外は外にあり、内は内にあり、外は内を悪と見、内は外を悪として考えるのですが、それは善と悪ではないのです、内と外であるのです、外には外の喜び、内には内の喜びがあるのです、二つが和して一となるのです、一が始めです、元です、和して動き、動いて和してください、悪を悪と見るのが悪です、霊界での現われは同じであっても、現実界に現われる時は違うことがあるのです、それはモノが異なるからです、二二はもとのキです、ナルトとはその現われのはたらきです、道徳、倫理、法律は何れも人民のつくったものです、本質的には生れ出た神の息吹きによらなければなりません、神も世界も人民も何れも生長しつつあるのです、何時までも同じであってはならないのです、三千年で一区切りです、今迄の考え方を変えてください、道徳を向上させ倫理を新しくして法律を少なくしてください、何れも一段づつ上げなければなりません、今迄のやり方が間違っていたこと分かったでしょう、一足飛びには行かないですが一歩一歩上って行かなければなりません、だからと言って土台を捨ててはなりません、土台の上に建物を建てるのです、空中楼閣は見ていられないのです、臍(へそ)の緒はつながっているのですから、一段奥の臍に臍にと進んで行けば、そこに新しい広い世界が大きくひらけるのです、自分を無くするのではなく高く深くするのです、無我ではないのです、分かりましたか、海の底には金はいくらでもあるのです、幽界と霊線をつなぐと自己愛となり天国と霊線をつなげば真愛と現われるのです、喜びも二つあるのです、三つあるのです、大歓喜は一つですが、次の段階では二つとなるのです、他を愛するのは真愛です、己のみを愛するのは自己愛です、自己愛を排してはなりません、自己愛を広げて大きくして真愛と合致させなければなりません、そこに新しき理(ミチ)がひらけるのです、自己愛を悪魔と説くのは悪魔です、無き悪魔をつくり生み出してはなりません、一段昇らなければ分かりません、公のことに働くことが己のために働くことです、大の動きをなすために小の動きをなし、小の動きをなすために個の動きをなすのです、・に・があり、また・があると申しているのです、何事も喜びからです、結果からまた喜びが生れるのです、この道理が分かれば何事もありやかです、ミロクの世となれば世界の国々がそれぞれ独立の、独自のものとなるのですが、皆それぞれの国は一つの臍で、大きな一つの臍につながっているのです、地上天国は一国であり、一家ですが、それぞれの自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるのです、一色に塗りつぶすような一家となると思っていますが、人間の浅はかな考え方です、考え違いです、この根本を直さなければなりません、霊界の通りになるのです、外の喜びはその喜びによって悪を増し、内の喜びはその喜びによって善を増すのですが誠の喜びは外と内とが一つになり、二つになり、三つになった喜びとならなければ弥栄えないのです、親と子は、生むと生まれるとの相違が出来て来るのです、また上の子と下の子と、左の子と右の子とは違うのです、違えばこそ存在するのです、神に従ってください、理屈を言わないで従ってください、地獄はないと申してあるでしょう、人は神の喜びの子と申してあるでしょう、人の本性は神なのです、神なればこそ天国へ自づから行くのです、住むのです、人民はうそが上手になったから中々油断出来ないのです、下々の神様も、うそが上手になったものです、善である悪であると申していますが、人民の善はそのまま霊人の善ではないのです、そのまま霊人の悪ではないのです、心してください、グッと締めたり、ゆるめたりして呼吸しなければなりません、そこに政治の動きがあるのです、経済の根本があるのです、逆にしめる事もあるのです、善と申し悪の御用と申すことの動きがそこから出るのです、じっとしていてはならないのです、ジッとしている善は善ではないのです、どんなに世界のため、人類のためだと申しても、その心に我が強いから、一方しか見えないので世界のためにならないのです、人類のためにならないのです、洗濯してさらに洗濯してください、自分が生んだもの、自分から湧き出るものは、いくら他に与えても無くならないのです、与えて与えてください、与えて無くなるものは自分のものではないと申してあるでしょう、無くなると思うのは形のみ見ているからです、カラのみ見るからです、本質は無限に拡がるのです、与えるほどよりよく、神から与えられるのです、井戸の水のようなものです、汲めば汲むほど良くなる仕組みです、統一ということは赤とか白とかの一色にすることではないのです、赤もあれば黄もあり青もあるのです、それぞれのものは皆それぞれであって一点の・でくくる所に統一があるのです、くくると申してしばるのではないのです、磁石が北に向くように総てが一点に向かうことです、これを公平と申し、平等と申すのです、悪平等は悪平等です、一色であってはならないのです、下が上に、上が下にと申してありますが、一度で治まるのではないのです、幾度も幾度も上下にひっくりかえり、またひっくりかえりビックリとなるのです、ビックリこねまわしなのです、神示が一度で分かる人民にはミタマ鎮めやカミ鎮めやカミカカリは要らないのです、分からないからやらせているのです、やらせなければ分からないですし、やらせると脇道に落ちるし、いやはや困ったものです、人民は神の臍とつながっているのです、臍の緒さえつながっていればよく、神人であるのです、・と・とつながって、さらに大きな・につながっているからこそ動きがあり、それぞれのハタラキがあり、使命を果たし得るのです、同じであって全部が合一しては力が出ないのです、早く心を入れ替えてくださいと申していますが、心とは外の心です、心の中の中の中の心の中には・が植え付けてあるのですが、外が真っ暗です、今迄のやり方では行けないことは分かっているでしょう、要らないものは早く捨ててください、直々の大神様は二(ツキ)の大神様です、中今(ナカイマ)と申すことは・今と申すことです、・は無です、動き無き動きです、よくわきまえてください、今までのやり方を変えてください、一段も二段も三段も上の広い深い、ゆとりのあるやり方、神のやり方、規則の無い世に、考え方やり方を変えるのが結構なのです、科学に・を入れると宗教となるのです、・は数です、カネは掘り出せないのです、生み出してください、和が根本であり和がよろこびです、和すには神を通じて和すのです、神を通さずに、神を無くして通じるのが悪和合です、神から分かれたのですから神に帰って、神の心に戻って和さなければならない道理です、神なくして和はないのです、世界平和と申していますが、神にかえって神に通じなければ和平は無く、よろこびは無いのです、十二の玉を十まで生んで後二つ残してあるのです、神に融け入ってください、次元が違い、戒律が出来るから分からないのです、解け入るのです、どうしても大戦(いくさ)となります、人の殺し合いばかりではないと知らせてあるでしょう、ビックリがあるのです、神が主で人民が従なのです、人民が主となっているので世が乱れているのです、結果があって原因があるのでは無いのです、今の人民は結構になり過ぎて天地の御恩を忘れているのです、いよいよとなったら泣面しなければならないと分かっているのでくどく気を付けているのです、誠のことはトリの年です、上から見ると皆人民です、下から見ると皆神です、分かったと思っているでしょうが神の仕組みは学や金銀を積んでもチョットやソットで分かるはずは無いのです、今までの三千年のやり方が違っていたと気づくならば、気づいて神示を読むならば、一切のことがありやかになるのです、肝心なことです、ウはムであり、ウとは現実界、ムとは霊界であるのです、ウもムも同じであるのです、ムからウが生まれて来ると申してあることを良く心得てください、神の仕組みは狂い無いのですが、人民が理解しないとそれだけこの世の歩みが遅れるのです、この世は人民と手を引きあってやらなければならないのです、千人万人なら一人づつ手を引いてやってもやりやすいのですが、世界の人民、動物虫けらまでも助ける仕組みなのですから、人民が早く改心しなければ、いよいよ気の毒なことが起きて苦しみが長くなるのです、中は無であり外は有であるのです、中になるほど無の無となるのです、同じことを繰り返すと人民は申していますが、まだ納得してはいないので肝心なことをくどく申しているのです、人民はそれぞれのミタマによって役目が違うのです、手は手、足は足の役目と申してあるでしょう、何もかも混ぜこぜにやるから結びつかないのです、型にはまることをカタマルと申すのです、こり固まっては動きはとれません、固まらなければ型は出来ないし、人民には理解出来ないですが、型を外して型を作らなければならないのです、法律は作らなければならないのですが、作ってはならないのです、神から命令されたミタマでも油断は出来ないのです、曇ったらすぐに代りのミタマと入れ替えるのです、コリ固まったものがケガレです、ケガレは祓わなければなりません、絶えず祓って祓って祓いながら、また固まらなければなりませんし、人民には理解出来ないのですが、肉体あるから固まらなければならないし、常に祓わなければならないのです、総てをこんなものだと決めつけてはならないのです、・が枯れることをケガレと申すのです、神界の立て替えばかりでは立て替え出来なにのです、人民界の立て替えはなかなか難しいのです、霊は物に付くと申してあるでしょう、お祓いする時は物につけて物と共にしてください、共に祓ってください、これほど誠を申しても残る一厘はいよいよのギリギリでないと申さないので、疑うのも無理のないことですが、見ていてください、神の仕組みは見事に成就させるのです、一厘のことは告げられないのです、申したら仕組みは成就しないのです、知らせないので改心は遅れるのです、心の心で受け取ってください、肉体は霊の衣と申してあるでしょう、衣が霊を自由にしてはならないのです、衣には衣の約束があるのです、衣だからと言って粗末してはならないのです、どちらも神の現われであるのです、内には内の内があり、外には外の外があるのです、人をほめることは自分をほめることです、人を褒めてください、この巻は秋の巻です