聖書を理解する 38号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡わたしを食べなさい

●考察➡取って食べなさい、これはわたしの体であるとイエス様は最後の晩餐で言われました、この言葉はアダムとエバが食べた善悪の知恵の実に対応するものだと考察されます、必ず死ぬと神様が言われた善悪の知恵の実を食べた人類が復活するための食べものです、食べたら死んで食べたら生き返るのが聖書の大きな構造です、人類のテーマが凝縮されている「エッセンス」です、多くの人はイエス様を食べないので残念ですが死ぬという運命にあります、あるいは苦しみ生き続けるという運命です、永遠の苦しみは死ぬより苦しい、死んだ方がましだと思っても死ねないのが聖書の死です、死よりもおそろしい死です、だから自分で死ぬなと教えているのです、神様が殺すまで死ぬな、つまり最後まで耐え忍ぶという人生が人生です、今の人生を耐え忍ぶか、死ぬよりおそろしい死を選択するのか、それほど真剣な選択を人類は求められているのですから、飲んだり食べたり娶ったりではなく、イエス様を食べなさいとなるのです、イエス様を食べるとは抽象的な「たとえ」ではありますが、本気で食べることがイエス様の教えでもあります、ごっこ遊びではありません、イエス様を食べても良いのです、汚れた毎日の食事よりもイエス様の聖体をいただく方が実になるのです、この身になりますように、、と母マリヤ様が祈りました、一日の糧(かて)は必ず与えられるので心配するなとあります、普通の生活をしていれば普通の食事は与えられるのですが、普通の生活をしていてもイエス様が与えられるとは限りません、限りない無限の神様であるイエス様なのですが、限られた人しか信仰していないイエス様、招かれても自分のことで忙しい人々、誰でもいいから来なさいと言われても行かない、礼服を着ないで行く失礼な人、聖書とは何でもかんでもごちゃ混ぜではありません、選ばれた民、選ばれたのに行かない人、次に他国の人が招待され、無礼な人は追い出されるという構造です、それで自分だけ先に食べるのは良いことでしょうか、食事のマナーとは先に人にどうぞとすすめることです、イエス様を食べることを人にすすめるのは良いことなのです、自分だけ食べてはいけないのです、イエス様は最後の晩餐を弟子たちと一緒に行うことを強く望んでいたのです、一緒にイエス様をいただく信仰がお互いに生きる糧(かて)なのです。