日月神示を繰り返し読む 2024年05月31日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

日月神示 春の巻①

新しき御代のはじめのタツの年にスメ大神が生まれ出るのです、皆さん御苦労ですがグルグル廻ってまた始めからなのです、始めの始めと始めが違うのです、皆始めはヒ(一)からです、赤児になって出直してください、ハラで見てハラで聞き、ハラで話してください、ハラには間違いはないのです、祈りばかりでは祈り地獄です、神から光を頂けるように理(ミチ)をつけなければなりません、水は低い所に流れるのです、喜びに叶う心、喜びの行ある所に喜びが来るのです、喜びにも正しい喜びと曲った喜びがあるのです、無限の段階があるのです、心して迷わない様にしてください、ここは光の理(みち)を伝えて行う所です、教えではないと申してあるでしょう、教えは教えに過ぎないのです、今度は理(みち)でなくてはならないのです、天の理、地の理、もろもろの理のカタを急ぐのです、教えは局部的、時、所で違うのです、迷信となるのです、ハラが神であるのです、カミ人と申す人は、神の弥栄えのため世の弥栄のために祈り、実践する人のことです、神のために祈れば神となり、世のために祈れば世と一体となるのです、自分のためばかりで祈るのは迷信、我よしの下の下です、誰でも霊かかりであるのです、石でも木でも土でも霊かかりです、これは一般神かかりなのです、特別な神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのです、九分通りはしくじるのです、太陽の光を集めることを知っているでしょう、神の理(みち)をより良くより高く集める理(みち)が誠の信仰なのです、理(みち)なのです、世が迫って来て霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時が来ているのです、悪神かかりに迷わないでください、審神(サニワ)してください、外はウソが多いのです、内の声はウソがないのです

節分の祝詞

掛け巻も畏き極み九二つ千の、清(すが)の中なる大清み、清みし中の清らなる、清き真中の喜びの、其の真中なる御光の、そが御力ぞ、綾によし、十九立(とこたち)まし、大九二の十九立(オオクニのトコタチ)大神、十四九百ヌ(とよくもぬ)、十四(とよ)の大神、瀬織津の、ヒメの大神、速秋の、秋津ヒメ神、伊吹戸の、主の大神、速々の、佐須良ヒメ神、これやこの、太日月(オオヒツキ)、皇神(すめかみ)の御前畏こみ、謹みて、うなね突貫き、白さまく、ことの誠(真言)を伊行く水、流れ流れて、月速み、いつの程にやこの年の、冬も呉竹、一と夜(よさ)の、梓(あずさ)の弓の今とはや、明けなむ春の立ちそめし、真玉新玉、よろこびの、神の稜威(みいず)につらつらや、思い浮かべば、天地(アメツチ)の、始めの時に、大御祖神(おおみおや)、九二十九立(クニトコタチ)の、大神伊、三千年、またも三千年の、もまた三千年、浮きに瀬に、忍び堪えまし、波風の、その荒々し、渡津海(わたつみ)の、塩の八百路の、八汐路の、汐の八穂合い、洗われし、孤島の中の、籠らいし、籠り玉いて、畏くも、この世かまいし、大神の、時めぐり来て、一筋の、光の御代と、出でませし、めでたき日にぞ今日の日は、御前畏こみ、御饌御酒(みけみき)を、ささげまつりて、海山野(うみやまぬ)、種々(くさぐさ)珍(うず)の、みつぎもの、供へまつりて、かごぢもの、ひざ折り伏せて、大まつり、まつり仕へむ、まつらまく、生きとし生ける、まめひとの、ゆくりあらずも、犯しけむ、罪やけがれの、あらむをば、祓戸にます、祓戸の、大神達と相共に、ことはかりまし、神直日、大直日にぞ、見伊直し、聞き直しまし、祓ひまし、清め玉ひて、清々し、清(すが)の御民(みたみ)ときこし召し、相(あい)諾(うずな)いて、玉へかし、玉はれかしと、多米津(ためつ)もの、百取(ももと)り、さらに、百取の、机の代(しろ)に、足らはして、横山の如、波の如、伊盛栄ゆる大神の、神の御前に、まつらまく、こいのみまつる、畏こみて、まつらく白す、弥つぎつぎに、新玉の玉の御年(みとし)の明けそめて罪も穢れも今はあらじな

節分の祝詞です、太祝詞してください、いよいよの年が立ちそめたのです、うれしうれしの御代が来るのです、同じ名の神が二つあると申してあるでしょう、表の喜びが・、愛、真、善、美となって現われ、裏の喜びからは、〇、憎、偽、悪、醜が現われるのです、喜びが神だと申して裏の喜びではならないのです、今の人民の喜びは裏の喜びなのです、悲しみを喜びと取り違えているのです、この巻は春の巻、細かく説いて解かりやすく説いて聞かせるのです、分ければそれだけ小さくなるなるのです、人民が栄えて行くことは、神が弥栄えすることです、神も人民も、世界も宇宙も、総ていつまでも未完成です、神様でも大神様は分からないのです、ただ喜びに向ってひたすらに進んで行けば良いのです、正しき喜びを先づ見極めてください、見極めてひたすらに進めば良いのです、食物を食べるのも喜びです、正しい食物を正しく食べてください、更に喜びが増えて弥栄えるのです、自分の喜びを進め進めて天国に入ることが出来るのです、悪い食物を悪く食べるから悪くなるのです、目に見える食物ばかりでないのです、何もかも同様です、人民は喜びの子と申してあるでしょう、罪の子ではないのです、うれしうれしの道があるのに何故歩まないのですか、喜びが・、真、善、美、愛と現われ、それがまた喜びとなり、また・、真、善、美、愛となり、また現われて限りないのです、喜びの本体はあの世、現われはこの世、あの世とこの世と合わせて真実の世となるのです、あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪で誠は成就しないのです、あの世とこの世とは合せ鏡、神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世を⦿として、心として生命しているのです、神人と申してあるでしょう、この十理(道理)をよくわきまえてください、この世にあるものの生命はあの世のもの、あの世の生命の衣はこの世のものです、くどいようですがこのことを肚の中に入れて得心してください、これが得心出来なければどんなに良いことをしても、誠を申しても何もならないのです、ウタカタ(水の泡)です、時節が来たのですから、今までの様に一方だけではならないのです、ことわけて書いて置きますから、迷わないように人民の理(ミチ)を歩んでください、何もかも嬉し嬉しとなる仕組み、人民には禍いは無いのです、不足はないのです、いつも楽し楽しの歌で暮せる仕組みですと申しても、心で分かっても、今の人民には分からないでしょうから、更にこと分けて、こまかく説いて聞かせるのです、道しるべを作っておくのです、これが喜びの理(みち)です、人民の生命を正しく育てることが一番の喜びです、人民と申すものは神の喜びの全き現われであるのです、いくら汚れても元の神の根元神のキを受けているのです、それを育てることです、導くことです、死のうとする人を助けるのもその一つです、宿った子を殺すことは人民殺すことです、今の人民の九分九厘は死んでいるのです、救い救い救うのです、お陰は取り得なのです、生かして生かして生かす理(みち)は神示を読む事なのです、人民を褒めることは良いことです、褒めてその非をさとらせるのです、罪を許すことです、ものを生かすことです、生かして使うことです、神示(ふで)を広めることです、やって見てください、必ずうれしうれしとなり栄えるのです、嬉しくなかったら神はこの世にいないのです、神示は一本道ですから始めからの神示を良く読んで見てください、何もかもハッキリして来るのです、神示をうつしてください、世界にうつすことはよろこびです、天国を地にうつすことです、難しいことは無いのです、今の裏のやり方をひっくり返して表のやり方をすればそれで良いのです、裏は裏として生きるのです、金は使うものですから使われるものでないことは良く分かっているでしょう、御苦労なことは止めてください、人民には分別を与えてあるから反省が出来るのです、反省するから進展するのです、放っておいても要らないものは無くなり必要なものは栄えるのですが人民の努力によってはより良くなるのです、反省しなければ生まれた時より悪くなるのです、欲を浄化して喜びとしてください、喜びは何からでも生まれるのです、広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上するのです、物の世界から霊の世界へと無限の世界に入るから無限の生命が与えられるのです、無限の喜びを得ることが出来るのです、無限の世界とは物と霊との大調和した限りなき光の世界です、真理を知ることが無限を得ることです、誠の神を掴むことです、良いものを作るには大きな手数がかかるのです、懐手でいては出来ないのです、手を出し足を出してください、一切のものは渦なのです、渦は同じことを繰り返しているように人民には世界が見えるのですが一段づつ進んでいるのです、木でも草でも同様なのです、前の春と今年の春とは同じであって違っているのです、行き詰りがありがたいのです、進んでいるからこそ行き当たり、行き詰まるのです、省みる時を与えられるのです、さとりの時を与えられるのです、ものは放すからこそ掴めるのです、固く握って戸を閉めていてはいけないのです、扉は開けておけと申してあるでしょう、着物を脱いで裸となることはつらいのですが、脱がなければ新しい着物は着られないのです、裸になって神様にぶつかってください、神様も裸になってそなたを抱いてくださるのです、重い石を乗せたタクアンは美味いのです、内の自分は神であり外の自分は先祖なのです、先祖を祀ることは自分を祀ることです、外の自分と申しても肉体ばかりではないのです、肉体霊も外の自分なのです、信じ切るからこそ飛躍するのです、不信に進歩弥栄えは無いのです、肉体霊も外の自分です、任せ切るからこそ神となるのです、神に通じるのです、他力であり自力であるのです、真剣でなければ百年たっても同じ所をウヨウヨしているのです、一歩も進まないのです、進まないことは遅れていることです、真剣であれば失敗しても良いと申してあるでしょう、省みることによって更に数倍することが得られるのです、いい加減は一旦成功しても土台が無いのでウタカタです、下座の行は大切です、無くて七癖、あって七七四十九癖、悪い癖を直してください、天国へ行く鍵です、直せば直しただけ外に響くものが変わって来るのです、良くなって来るのです、変わって来れば外から来るもの、自分に来るものが変わって来るのです、良くなって来るのです、幸いとなるのです、喜びが満ち満つのです、神が満ち満ちて天国です、一升桝を持って来て一斗入れて欲しいと人民は申しているのですが、神は一斗も二斗も入れてやりたいのですが、一升桝には一升しか入らないのです、大き桝を持って来てください、頂くには頂くだけの資格が要るのです、一歩づつ進んでください、一歩づつ絶えず進めてください、それより他に道はないのです、自分は良いが世の中が悪いのだと申していますが、その自分を省みてください、自分が神の理(みち)にあり真実であるならば世の中は悪くないのです、世の中は輝いているのです、自分に降りかかって来る一切のものは最善のものと思ってください、いかなる悪いことも、それは最善のものであるのです、この道理をよくわきまえてください、真の神を理解すれば一切の幸福が得られるのです、世を呪うことは自分を呪うこと、世間や他人を恨むことは自分を恨むことです、このことを悟れば一切はそこから開けて来るのです、十のもの受けるには十の努力どんな草でも木でもその草木でなければならん御用があるのです、だから生きているのです、そのはたらき御用を忘れるから苦しむのです、行き詰るのです、御用を忘れるから亡びるのです、個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用があるのです、御用は大切であり御用は結構なのです、日本が変って世界となったのです、自分の為ばかりの祈りには自分だけの神しか出て来ないのです、悪の祈りには悪の神、善の祈りには善の神が出て来るのです、始めの間は中々分からないものです、神様のなされる真似から始めてください、思う様にならないのは、天地の弥栄え育成化育に沿って働いていないからです、今の世界の行き詰りは、世界が世界の御用をしてないからです、神示を読んでください、秘文(ひふみ)を世界にうつしてください、早く早くうつしてください、人間の知恵だけでは世界は良くならないのです、裏側だけ清めても総体は清まらないのです、神に目覚めなければならないのです、愛にも内のものと外のものとがあるのです、愛と申せば何でも良いと思っていてはならないのです、愛の悪もあるのです、総てがこの通りです、より高い上の所から来るから奇跡と見え、偶然と見えるのです、神からの現われなのですから、その手順が分からないので偶然と見えるのです、偶然の真理を悟ってください、これが分かれば大安心立命、あなた任せはよい妻と申してあるでしょう、神任せが良い人民なのです、この神と認めたならば理解して任せ切ってください、太元の神様にホレ参ってください、真の信仰の第一歩です、雨が降れば雨を、風が吹けば風を一先づ甘受してください、甘受した後に処理して行かなければなりません、受け入れずにハネ返すのは大怪我の元です、何回でも何回でも同じ事を繰り返さなければならないことになるのです、何かが迫って来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからです、内にあるから外から迫るのです、自分で呼び寄せているのです、苦しみの神、因果の神を呼んでおいて不足申している者が多いのです、自分で呼び寄せているのに嫌がってハネ返す手はないのです、同じものでも表からと裏からとでは違うのです、同じ目で見ても違って見えるのですから心得てください、希望は愛の現われの一つですから、どんな時どんな人にも与えられているのです、希望に燃えつつ現在を足場として生きて呼吸してください、同じことをしていても、希望を持つ人は栄え、希望の無い人は亡びるのです、希望は神です、アイウエオからアオウエイの世にうつって来るのです、アオウエイの世が天国です、用意は良いですか、今の世は道具ばかりです、使う人民を早く作ってください、使命が命なのです、神から上から命ぜられたことが命なのです、使命はつくられた時に与えられるのです、使命がなくてはものは生まれないのです、自分の使命は内に聞きつつ外に聞いてください、使命を果たす事がよろこびです、使命を果たすには命がけでなくてはならないのです、使命が生命だからです、努力した上にも果たさなければならないのです、努力には苦もあるのです、苦のない努力は無いのです、右を動かせば左も動くのです、果たせば苦は楽となり、果たさなければ楽も苦なのです、重荷があるからこそ、苦があるからこそ、風にも倒れないのです、神が主であるのです、小乗の行を馬鹿にしてはなりません、今の鼻高さんは理屈で神を割り出したり、ソロバンではじき出したりしているのですが、何処まで行っても分からないのです、土を耕す祈りに神の姿が現われるのです、止まってはならないのです、いつも弥栄え々々に動いて行かなければなりません、大中心に向って進まなければならないのです、途中には途中の、大には大の、中には中の、小には小の中心はあるのですが、行く所は一つです、それでも小の中心を忘れてはならないのです、神は順ですから先づ小の神から進んで行ってください、本当の事を知るには本当の鍛練が要るのです、棚からぼた餅を食っていては段々痩せ細るだけです、鍛え鍛えてください、鍛えればこそ光が出て来るのです、他力の中の自力です、だからと申して、任せ切ったと申して懐手ではならないのです、自力も大切です、まつりは日々の常住坐臥にあるのです、拝むばかりではならないのです、拝むまつりはまつりのカタです、カタから入るのは入り易いですが、この程度の境地では戒律が要るのです、カタに囚われてはならないのです、戒律の世界にいつ迄も居てはならないのです、十年経てば十才になるのです、恩を知らなければなりません、恩に報いなければならないのです、人民は天地の恩を忘れているから喜びが少ないのです、ものの順序をわきまえなければならないのです、悪平等はなりません、政治や経済は裏のものであり二義的のものです