日月神示を繰り返し読む 2024年05月29日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

日月神示 黒鉄の巻

汽車があれば汽車に乗ってください、飛行機があれば飛行機に乗ってください、歩いたり馬で行くのでは間に合わないことになっているのです、昔のままの宗教のやり方ではならないのです、根本は良くても中々に目的地には着かないのです、飛行機時代には飛行機に乗ってください、乗って進む宗教の道によらなければならないのです、今は今の姿が真実です、自分の頭で割り切れないと申してブツブツ申さないでください、あるものそのものが真実です、そのあるものを拝み祝福して、そこから出発してください、現在を祝福することは過去、未来の総てを祝福することです、たとえいかなる現在も、その現在を祝福しなければならないのです、喜びしなければならないのです、喜びが元であると申しているのです、この巻は黒鉄の巻です、一切に向って涙してください、懺悔してください、一切を受け入れて一切に感謝してください、一切が自分なのです、一切が喜びなのです、理屈は一方的なものです、どんな理屈も成り立つのですが理屈ほど頼りない力にならないものはないのです、理(みち)が⦿(カミ)の御能(オンハタラキ)です、よく見極めなければ間違うのです、囚われないでください、他の為に苦労することは喜びです、全体のために働くことは喜びです、光の生命です、誰にでも重荷を負わせてあるのです、重荷があるからこそ風にも倒れないのです、この道理を涙で笑って汗で喜んでください、それとも重荷を外して欲しいのですか、重い重荷も軽い重荷もあるのです、今蒔いた種は今日や明日には実らないのです、早く花が見たくて実が欲しいから焦るのです、人間の近慾と申すものです、神の大道に生きて実りの秋(トキ)を待ってください、蒔いた種は必ず実るのです、誰も横取りはしないのです、万倍になって自分に返って来るのです、未来に燃えつつ現在に燃えてください、神を相手に悠々と天地に歩んでください道は自分で歩まなければならないのです、自分の口で食べ物を噛まなければなりません、噛みしめてください、ウジ虫に青畳は苦の種です、畳には畳に座るだけの行をしてから座らなければなりません、生命は言葉です、言葉はミコト(命)です、ミコトは神の心です、喜びです、ミコトに生きてください、コトがあればオトがあるのです、オトがあればイロがあるのです、イロがあればカズ(数)があるのです、善にも神の心があり、悪にも神の心があるのです、プラスとマイナスと和合しなければなりません、ただ和合するだけではムになって力が出ないのです、今までの和合のやり方ではならないのです、喜びの和合、融け合う和合、・ある和合でないと少しでも曇りがあったら和合ではないのです、こらえこらえているのでは和合ではないのです、今までの和合のやり方ではカスがあるのです、悪の和合なのです、神示を肚に入れないで御用は難しいのです、はじめは目標(めあて)をつくって進まないと、行ったり来たり同じ道をドウドウめぐりです、掴める所から掴んで行ってください、拝んで進んでください、統一した幸福こそ二二(フジ)晴れの幸福です、気づいたことから早く改めてください、トコトンまで行ってから神がやるのでは人間の面目はないのです、人間同士で良く行ってください、ただ有難いだけではならないのです、仕事しなければなりません、努力しなければなりません、じっとしていては進めない道理です、灯りをつけなければ闇の世は歩けないのです、それぞれの灯りとなってください、油は神示です、油はつきないのです、いくらでも灯りをつけてください、マツリから出直してくださいと申してあるでしょう、結構な大きいまつり、小さいまつり、まつろってください、神の心になれば神が明らかに見えるのです、芽を出したので間引かなければなりません、神示を読まない人と神示が肚に入ってもう大丈夫であると神が見届けた人間と間引くのです、肚に入った芽は間引いて他に植え替えるのです、神示を読まない者は間引いて肥料とするのです、わざわざ遠い所にお詣りしなくても、自分の家に祀ってあるのだから、それを拝めば同じことである、それで良いのだと理屈を申しているのですが、格の上の所へ求めて行くのが仁義、礼儀と申すものです、キがあれば必ず出来るのです、この世は立て替えしないで行けば、行けば行く程悪く行き詰まるのです、早く目覚めてください、まつりしなければ真理は通じないのです、子供にまつろわなければ子供を導けない道理です、自分が分かれば一切ありやかです、神の申すようにすれば神が護るので何事も思う様にスラリスラリと心配なく出て来るのです、区別と順をわきまえていれば何様を拝んでも良いのです、時、所、位に応じて誤らなければ弥栄えるのです、同じ愛、同じ想念の者は自ら集まって結ばれるのです、天国のカタチ、ウツシが奥山です、味噌もクソも一緒にしてはいけないのです、神心には始めも終りも無いのです、総てがあるのです、世界を見てください、三千世界を良く見てください、総てが秘文です、他力の中に自力があるのです、自分ばかりでは成就しないのです、地団駄を踏むばかりです、愛は愛だけでは愛ではないのです、真は真だけでは真ではないのです、まつり合せて・を入れて愛となり真となるのです、愛のみが出ると悪となり、真のみが出ると偽(ギ)となることがあるのです、偽(いつわ)りと悪とがまつって善の働きをすることがあるのです、心してください、難しいことを申さずに平たく解けと申してあるでしょう、ミタマを上中下の三段、三段に別けて説いて聞かせなければ仕組みが遅れるのです、はじめは神様がしてくれるのですが向上すると自分でしなければなりません、いつまでも神を使っていてはならないのです、理解は真から意志は善からでしたが、今まではそれでよいと説いて来たのですが、いよいよ岩戸開きとなったのですから、次の鍵を渡すので良く心得てください、今までの教えではマボロシです、力はないのです、まつり合せて意志と働いて・を入れて理解出来るのです、まつりまつりと申してあるでしょう、上のまつりなのです、マボロシとは人間知恵のことです、理屈のことです、理屈とは悪の学のことです、理でなければならないのです、学を出し我を出すから行き詰るのです、生れ赤児と申しているのは学も我も出さない水晶のことです、ねり直して澄んだ水晶は結構なのです、親の心が分かったなら手伝いしなければなりません、言われる先に手伝いするものだと申してあるでしょう、いつまでも小便をかけていてはならないのです、人間は罪の子ではないのです、喜びの子です、神の子です、神の子なればこそ悔い改めなければならないのです、真無き愛の道、悲しみの喜びからも生れることがあるのです、それは罪の子と申すのです、次の御用は神示をうつすことです、神示をうつすとは神示を人間に世界にうつすことです、神示を中心とした世界のはたらきをしてください、・を通じた人間の仕事につかえまつってください、神示を・とした世界をつくることです、神示に囚われるから分からないのです、神示を捨てて、仕事に神示を生かして生活してください、生活が神示なのです、分かりましたか、早く次の御用を急いでください、宗教に生きて宗教に囚われないでください、仕事が宗教なのです、小さいことから始めてください、小乗の行と馬鹿にしないでください、小乗の行から大乗の真理を掴むのです、理屈で進んで行くと終わりには共喰いになり、我と我を食べることになるのです、神様を真剣に求めれば神様は人間様を真剣に導いてくださるのです、結構に導いてくださるのです、悪を意志して善を理解することは許さないのです、悪を意志して善を理解しようとするのが悪です、善を意志して悪を理解しようとするのも悪です、悪を意志して悪を理解するところに、善としての悪の用(はたらき)が生まれるのです、幽界もまた神の治める一面なのです、悪の総大将は奥に隠れているのです、一の大将と二の大将とが大喧嘩すると見せかけて世界をワヤにする仕組みはもう九分通り出来上がっているのです、真の理解に入ると宗教に囚われなくなるのです、形式に囚われなくなるのです、真の理解に入らなければ真の善も真の信も真の悪も真の偽りも分からないのです、今に岩戸が開いてあきらかになったら、宗教も政治も要らないのです、喜びの歌が高らかにナルトの仕組みが二二(フジ)に映るのです、人間を幸福にするのは心の向け方一つであるのです、人間はいつも善と悪との中にいるのですから、善のみと言うこともなく悪のみと言うこともないのです、内に神が鎮座して外が人に和し、内に霊が居り外が体に和せばそれで良いのです、そこに喜びが生まれるのです、神から出た教えならば他の教えとも協力して共に進まなければなりません、教派や教義に囚われるは邪の教えです、豚に真珠とならないでください、天国の意志は人間の喜びの中に入り、幽界の意志は悲しみの中に入るのです、いよいよ表の守護と相成ったのです、表の守護とは、良いものもなく悪いものもなく、只喜びのみの守護となることです、悪いものが悪くなるのは表の守護ではないのです、心得てください、一つの魂を得ることは一つの世界を得ることです、人間は一人ではないのです、神は善人の中にも悪人の中にも呼吸しているのです、悪がなくては生きて行けないのです、悪は悪ではないのです、外道の悪が悪なのです、霊ばかり良くても体ばかり良くてもなりません、持ちつ持たれつなのです、分からないのは自分が偉いと思っているからです、目覚めればその日その時から良くなる仕組みが結構なのです、どんな世でも楽し楽しで過ごせるのが神の道です、智の中に悪を取り入れるゆとりが出来ないようでは誠は成就しないのです、知の中に総てを取り入れて理解出来るようになっているのです、愛の中に悪を入れてはならないのです、朝目が覚めたら起き上がるのです、起き上がらずにはいれないのです、神の命ずることは丁度そのように人間にうつるのです、霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違いが多いのです、気を付けてください、物に対しては人間そのものが霊なのです、人間はこの世の神と申してあるでしょう、物は人間の自由自在です、偶像は排すべきです、十像は拝すべきです、悪に行く理(みち)は無いのです、理は善のみに通じているのです、理の無いところを進んではなりません、愛から離れた理解は無いのです、善から離れた真理は無いのです、種が無いのに芽が出ることは無いのが道理です、人間の知恵で分からないことは迷信であると申していますが、神界のことは神界で呼吸しなければ分からないのです、分からない人間ですから何と言ってもいよいよとなったら神を求めるより他に道は無いのです、学に囚われてまだ目覚めない気の毒な人がウヨウヨいるのです、気の毒なことです、人間は霊人のカタシロになるからこそ養われているのです、成長して行くのです、血は愛によって生き、愛は喜びによって生きるのです、喜びが無い所に愛はないのです、・が無い所に生命(イノチ)は栄え無いのです、任せ切らなければ誠の安心立命は無いのです、任せ切るには、任せ切って安心出来る神をつかまねばなりませんお陰信心や病気治しの神では任せ切れないでしょう、早く合点するのが結構です、大きな生命に通ずるものには死は無いのです、通じなければ死があるのです、身も心も嬉し嬉しとなるのが誠の神です、物の嬉しさだけではゼロなのです、タマの嬉しさだけでもゼロです、よく心得えてください