聖書を理解する 15号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡人は罪を背負っているのか

●考察➡日月神示には人は罪の子ではないと書かれていますが、めぐりがあるとも書かれています、神様に対して負債(めぐり)があると示されています、日月神示の場合はどちらも書かれていますので解釈は難しいです、たとえばすべてはてんし様のものぞと書いて、すべては自分のものぞとなったりします、悪霊にかかるなと書いて悪と調和しなさいとなっています、それで日月神示の解釈は「てんし様信仰」だと結論づけています、てんし様を拝んでくださいなのです、ところがてんし様は誰なのか解釈がいろいろあるというのが日月神示なのです、聖書の場合は信じる神様はイエス様にしなさいと決まっているのです、イエス様は創造主からすべての権威を委ねられたので最高の神様になっているのです、最高の神様であるイエス様を信じないことが人の最高の罪なのです、創造主も聖霊もイエス様が最高の救いの神様であると証(あかし)するのです、イエス様を信じていないことをしっかりと告白することです、信じているといいながら実は信じていないのです、クリスチャンの場合はイエス様信仰に見せかけたパウロ信仰です、パウロ信仰していない人でもイエス様を完璧に信じていないのです、心配や取り越し苦労があるのは信仰が足りないのです、完全にイエス様を信じて任せ切っていないのです、信じているとは口先だけで全幅の信頼ではありません、日々の生活の中で出て来る自分の感情はイエス様から離れている場合が多いのです、自分で考えているのです、自分で悩んでいるのです、自分で解決しようとすることが自己中心です、アダムとエバの時も神様に相談すれば罪は未然に防げたのです、悪魔の誘惑を受けても相談なしに食べてしまった、それから逃げ隠れしても遅いのです、罪を犯してから隠れるのではなく罪を犯す前に神様に相談しなさいです、自分で決めるには人は能力が足りないのです、人の学と神様の力には雲泥の差があると理解出来ていないのです、自分という存在が大きければ大きいほど神様の存在は小さくなります、人の力ではどうにも出来なくなった時に人は神様を呼び求めるとなっています、意識があるうちはまだ良いですが意識が無くなって死んでからは呼び求めることは出来ません、神様を呼び求める意識があるかどうか、最後は意識の問題になります、人の回復は問題意識からです、自分にはイエス様を信じていないという問題があるのです、これが罪の告白です、問題意識が理解出来たならば次は信仰の訓練(試し)です、イエス様を本当に信じているかどうかの試練があるのです、死ぬまで試練は続きます、イエス様を信じていれば祝福と恵みがあり、イエス様を信じない者には✖✖があります、信仰の結果は自分に実ることになります、他人の心配もしないことです、あの人はどうなるかと心配しないで自分の信仰に集中することです、イエス様に従うことです、アダムとエバが罪を犯した時に神様の存在を忘れていた、悪魔の誘惑と目の前の善悪の知恵の実に意識が向いていた、つまり人は「忘れる」という存在なのです、神様は忘れないのです、ここに大きな違いがあるのです、神様はあなたのことを絶対に忘れない、人は神様のことを忘れているので意識していません、それが罪です。