聖書を理解する 12号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡アダムとエバは楽園で何を食べたのか

●考察➡アダムとエバが食べた善悪の知恵の実は謎です、楽園の中央にあったとされる木から取って食べたのです、食べてはいけないと神様が命じた実とは何でしょうか、アダムとエバが食べると自分達は裸(はだか)だと知り、股(また)を隠したのです、そして隠れたのです、さらにその木の実を食べると必ず死ぬ、きっと死ぬとなっています、普通の人はそんな木の実があるかどうか関心は無いと思うのですが、アダムとエバが食べさえしなければ人類の歴史は苦労なしの楽々生活です、何を食べても良かったのですから食欲は満たされてアダムとエバは産めよ増やせよで、毎日毎晩〇✖〇✖して楽しんでいたのです、人の三大欲望って食欲、性欲、睡眠欲らしいです、食べて寝て男女が交わっていれば「幸せ」らしいです、楽園での生活は食べて寝て子作りに違いありません、それなのに善悪を知る木の実を食べたばかりに、現代の自分まで苦労して(額に汗して)労働しなければなりません、労働しても労働しても満足することはありません、何しろ男は一生汗を流す塵の人です、神様を信じてやっと一週間に一度、安息日が与えられています、連休とかある人もいますが、心から安息している人はいません、どこかに行こうとか何かをしようとか考えるだけで安息ではありません、何もしないで神様とゆったり過ごす人はいないのです、神様のいない安息日はせわしく忙しいのです、多くの人は連休しても「良いことはしなかった」ので満足感が得られないのです、むしろ罪悪感が残るのです、ここに問題があるのです、休日でも労働しても罪悪感がある、これが善悪の知恵の実の正体です、どこかに罪悪感を感じるのです、休んでも休んだ気がしない、満足できる時間ではなかった、怠けたような気がする、もっと勉強すれば良かったなどと心に不満が残るのです、だから人は何をやっても満足しません、だって善悪の知恵の実を食べたのですからいつも自分の中に罪悪感があります、さらに他人の罪悪も気にする悪感情があります、どこに逃げても隠れても、消えないのです、安住の地が無いのです、善悪の知恵の実を食べたからそうなったのです、安心感が無くて死ぬのです、アダムとエバが食べた知恵の実は「罪悪感」です、エバはヘビを責めて、アダムはエバを責めたのです、自分は悪い事をしたと分かったので隠れたのですが、反省はしないで他人の責任にして相手を殺す(責める)ようになったのです、だから自分も死ぬのです、責任転換は相手を攻撃しているようで実は自分が死ぬのです、イエス様の十字架も同じ法則が作動します、自分の罪をイエス様に着せるということになりますから自分が死んでしまうのです、動物のいけにえでは自分は死なないのです、動物や他の生きものは人の管理下にありますから殺しても罪にはなりません、他人の飼育している動物を勝手に殺せばそれは不法ですが、代価を払って自分のものにしてからいけにえにするのは自分の管理下になります、イエス様は自分のものではありませんからいけにえにはなりません、イエス様は自分の管理下には無いのです、イエス様の管理下に自分があるのです、それやこれやで人の中には罪悪感があって、何をやっても幸せにはならないようになったのです、すべては空しいとなります、この世は空の空、食べても飲んでも恋愛しても、その時だけ、だから神様は食べるなと命じたのです、自分の中の罪悪感が自分を殺すのです、自分は何をやってもダメだと自分を殺すのです、さらに他人もダメだと責めて攻撃するのです、もう楽園では無くなるのです。