聖書を理解する 01号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問➡神様はアダムとエバが食べてはいけない知恵の実をどうして園の中央に置かれたのか

●考察➡このブログを読んでいただける皆さんはある意味で真理や宗教に関心があると思われます、ブログの内容が「つまらない」とほとんどの人は去って行きます、自分に興味がある時は食いついて来ますが、ある意味でむなしいことです、聖書ではアダムとエバが犯した罪から人類の堕落が始まったのです、アダムからノアの時代くらいまで人は900歳くらいまで生きることが出来たのです、古事記や日本書紀でも最初の天皇はとても長生きなのです、今の時代はどんなに長生きしても120歳までと神様が決めています、120歳を超えることが出来ないのです、神様が決めたことなので人は神様に従うしか無いのです、もし120歳を超えて生きる人がいるならば神様の言うことは間違いか、神様が人の寿命を変更したということです、今の時代の人は120歳まで到達するのは至難の業です、途中で病気になったり、事故に遭ったり、戦争で亡くなったり、災害で亡くなることもあります、善悪の知恵の実を食べた人類の運命は「必ず死ぬ」となっています、聖書では「けがれた」とあります、アダムの罪でこの地はけがれたのです、けがれたものを食べたり飲んだりすれば必ず死ぬのです、ここが理解出来ないと自分で自分を殺すことになるのです、聖書の構造は人の前に「祝福と呪いを置く」のです、神様のやり方は二者択一です、どちらを選択するか神様は人を試しているのです、大いなる試練があるとイエス様も申しています、本日の疑問は神様はどうして園の中央に食べてはいけない知恵の実を置いたのか、アダムとエバが食べるのを知っているのに死ぬ木を置いていた、聖書の構造ではイエス様の言葉だけではなくパウロの福音も書かれています、多くの信者さんはパウロの福音をおいしい、おいしいと食べています、イエス様は三日目で復活されましたが、三日目で死ぬ人もいるのです、イエス様の福音が蒔かれて3000年目に結果が出るのです、パウロの福音が蒔かれて同じように結果が出ます、この地は汚れて人の遺伝子には必ず死ぬという「種」が植えられています、災害や事故や戦争や病気です、遺伝子は人の運命を決めるのです、先祖の遺伝を引き継ぐのです、自分の努力ではどうにもなりません、酒やタバコなどの嗜好も同じです、先祖と同じような嗜好を好むのです、そこで本日の結論ですが、死にたくなければイエス様の遺伝子を植え付けること、永遠の命の遺伝子をいただくことです、人には祝福と呪いが置かれるのです、どちらを選択するか、その人の選択なのです、無理に強制することは出来ません、神様がそのようにしているのです、人に選択権が無ければ、死ぬ木は置かないです、死んでしまう木など始めから造らないのです、聖書の構造は「死ぬか生きるか」です、死ぬか生きるかの気持ちで取り組まないと、悪魔の誘惑で死ぬと言うのが聖書の構造でもあります、本日は及川個人の文章となりましたが、いいかげんな人は死ぬと思います、イエス様はなまぬるい信仰は「吐き出す」と申しています、信仰は試されています、神様がやさしいだけなら楽園を追放したりしません、災害や戦争も全能の神様なら止めることが出来ます、この地は神様の言う事を聞かない人が「存在している」ということです、言う事を聞かない人も今は許しているということです、神様は人が死ぬことも許しているということです、許しの神様なのです