イエス様と生きる 2024年04月19日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

とても簡単に説明すると自分の思う通りに生きようとする人生から神様の言う通りにしようとする「転換」が「改心」です、自分の好きなように生きれば良いなどと書いたり言ったりする人はまだまだ多いです、イエス様の言う通りだけが正解です、ですからイエス様に「聞く」ことです、聞く耳のある者は聞きなさいというイエス様の言葉が大事です、多くの人はイエス様に聞こうともしないので、世界は混乱していますし、ますます混乱します

日月神示 月光の巻②

大奥山から流れ出た宗団はひかり教会だけではないのです、いくつもあるのです、出て来るのです、故に大奥山に集まった者が皆ひかり教会員ではないのです、それぞれのミタマの因縁によって色々な集団に属するのです、この点をよく心得てください、大奥山はありて無き存在です、人間の頭で消化出来るような小さい仕組みではないのです、大奥山だけに関係を持つ人もいるのです、囚われてはならないのです、三千世界を一つに丸めるのがこの度の大神業です、世界一家は目の前です、分からない人は邪魔しないで見物していてください、神の経綸は間違いないのです、産土様によくお願いしてください、忘れてはならないのです、宗教にこり固まって忘れる人が多いのです、他の神を拝んではならないと言う人の信仰はそれだけのものです、早く卒業するのが結構です、他の宗教に走ってはならないと言う宗教もそれだけのものです、分からないと申してもあまりであるのです、同じ所に天国も地獄も霊界も現実界もあり、過去も未来も中今にあるのです、同じ部屋に他の神や仏を祀ってはならないと申す一方的なメクラ宗教にはメクラが集まるのです、病気が治ったり運が開けたり、奇跡が起ったりするだけをお陰と思ってはならないのです、もう少し大きな心、深い愛と真の世界を拝んでください、融け入ってください、浄化が第一です、金が好きなら金を拝んでもよいのです、区別と順序さえ心得ていれば何様を拝んでもよいのです、金を拝めば金が流れて来るのです、金を拝めない意固地さがそなたを貧しくしたのです、赤貧は自慢にならないのです、無神論も自慢になりません、清貧は負け惜しみ、清富になってくださいと申してあるのです、清富こそ弥栄えの道、神の道、大ヒツキ大神のマコトの大道です、怒ってはなりません、急いではなりません、怒ると怒りの霊界との霊線がつながり、思わぬ怒りが湧いてものをこわしてしまうのです、太神の仕組みに狂いはないのです、皆皆安心してついて来てください、食物は科学的栄養のみに囚われてはなりません、霊の栄養が大切です、自分と自分と和合してくださいと申してありますが、肉体の自分と魂の自分との和合が出来たら、もう一段奥の魂と和合してください、更にまた奥の自分と和合してください、一番奥の自分は神なのです、高い心境に入ったならば神を拝む形式は無くても良いのです、為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となるのです、山も自分、川も自分、野も自分、海も自分です、草木動物すべてが自分です、歓喜です、その自分が出来たら天を自分としてください、天を自分にするとはムにすることです、〇に化すことです、ウとムと組み組みて新しきムとすることです、現状を足場として進まねばなりません、現在のそなたがおかれていた環境はそなたがつくり上げたものなのです、山の彼方に理想郷があるのではないのです、そなたはそなたの足場から出発しなければなりません、もしそれが地獄に見えたとしても現在においてはそれが出発点なのです、それより他に道はないのです、祓いは結構なのですが、厄祓いのみでは結構とはならないのです、それは丁度、悪を無くすれば善のみの地上天国が来ると思って、悪をなくすることに努力した結果が今日の大混乱を招いたのと同じであるのです、よく考えてください、善と申すのも悪と言うのも、皆悉く大神の肚の中であるのです、大神が許し給えばこそ存在しているのです、この道理をよく会得してください、祓うと申すのは無くすることではないのです、調和することです、和して弥栄えすることです、厄も祓わねばならないですが、福も祓わねばなりません、福祓いせよと申してあるでしょう、厄のみでは祓いにならないのです、福祓いのみでも祓いにならないのです、厄祓いのみをしたから今日の乱れた世相となったのです、この分かり切った道理が何故に分からないのですか、悪を抱き参らせてください、善も抱き参らせてください、抱くには〇にならなければなりません、モト(母答)を正さなければなりません、間に合わないことになるのです、心の改心をすれば、どんなお陰でもとらせるのです、幽国(がいこく)は火の雨なのです、世界一度に改心させるのです、心の入れ替えをしなさいとは新しき神界との霊線をつなぐことです、そなたは我が強いから、我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我の虫が生れて来るのです、我の病になって来るのです、その病は自分では分からないのです、わけの分からない虫が湧くのです、わけの分からない病が流行るとは申してあるのはそのことです、肉体の病ばかりではないのです、心の病が激しくなって来るから気を付けてください、人々にもそのことを知らせて共に栄えてください、この病を治すのは今日までの教えでは治らないのです、病を殺してしまって、病をなくしようとしても病はなくならないのです、病を浄化しなければならないのです、悪を殺すと言う教えや、やり方ではならないのです、悪を抱き参らせてください足の裏をきれいに掃除してください、外から見えない所が汚れているのです、日本の国も同様なのです、世界も同様です、出雲の神の社を変えて竜宮の乙姫(理由空云の音秘)様のお社を陸(理空)に造らなければこれからの世は動きがとれないことになるのです、一切が自分であると言うことは譬えではないのです、そなたは食物は自分でないと思っていますが、食べるとすぐに自分となるのです、空気も同様、水も同様、火も同様です、大空もそなた、山も川も野も海も、植物も動物も同様です、人間は横の自分です、神は縦の自分です、自分を見極めなければなりません、自分を疎かにしてはなりません、一切を受け入れねばならないのです、一切に向って感謝しなければならないと申してあるでしょう、世界連邦と申していますが、地上世界のみの連邦では成就しません、片輪車でいつまでたってもドンテンドンテンです、心してください、なぜ霊界、神界をひっくるめた三千世界連邦としないのでしょうか、要らぬ苦労はしないことです、誠から出たことは誰の願いも同様です、心配せずにドシドシと進めてください、もし行き詰ったら省みてください、行き詰った時は大きくひらける時です、ひらけると申して人間心で急がないでください、急ぐと道が見えなくなって来るのです、そなたの考えていることは自己中心なのです、我よしの小さい我よしではなりません、大きな我よしは結構なのです、犠牲になることは尊いことであると申していますが犠牲に倒れてはならないのです、己を生かす為に他を殺すのもいけません、己を殺して他を生かすのもいけません、大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得ないことと申したり教えたりしているのですが、総てを殺さずに皆が栄える道があるのです、なぜ神示を読まないのですか、神かかりは止めてください、そなたは学に囚われているのです、科学を越えて神の学に生きてください、そなたは自分で自分の首を絞める様なことをしているのです、自分で勝手に小さい自分の神を作っているのです、一度その神を捨てて見てください、固く抱きしめたり閉じ込めているから分からなことになり行き詰まるのです、我(が)と分からない我(が)に気をつけてください、今一息なのです、化物に化かされないよう、お陰を落とさないようにしてください、良いことを申し良い行いをしていても、良くない人があるのです、良くないことも御用の一つなのですが、そなたはまだそれを消化する程の所まで行っていないのです、小学生が大学生の真似をしてはいけません、そなたにはまだ欲があるのです、小さい自分ばかりの欲を捨てて誠の大深欲になってください、その気持さえ動いてくれば何事も見事に成就するのです、世界中の行は誰一人逃れるわけには行かないのです、メグリの清算が終わった者から嬉し嬉しになる仕組みなのです、そなたの心配は無理のないことなのですが、どこでどんなことをしていても、ミタマが磨けてさえ居れば心配無くなるのです、心配は磨けていない証拠なのです、そなたはものに不足するとこぼしているのですが、ものに不足するのは心に足らぬ所があるからです、心が満ちていれば物は満ちるのです、何事も神の申す通りに素直にしてください、素直は結構なのです、そなたのやることはいつも時が外れているのです、餅を搗(つ)くには搗く時があると知らしてあるでしょう、時の神を忘れてはならないのです、春には春のこと、夏には夏のことです、そなたは御神業であると申して、他に迷惑をかけているのです、そこから改めなければならないのです、鼻つまみの御神業は無いのです、そなたはお先が真っ暗だと申しているのですが、夜明けの前は暗いのです、暗い闇の後に夜明けが来ることは分かっているでしょう、神はすべてを見通しているのですから、すぐのお陰は小さいのです、利子のついた大きなお陰を結構に頂いてください、はじめの喜びは食物、次は異性なのです、何れも大きな驚きでしょう、これは和すことによって起るのです、融け合うことによって喜びとなるのです、喜びは神です、和さなければ苦となるのです、悲しみとなるのです、先づ自分と自分と和合してください、そこにこそ神の御ハタラキがあるのです、食べる事、異性は外の喜び肉体の喜びです、元の喜びとは霊の食物を食べることです、その大きな喜びを与えてあるのになぜ手を出さないのですか、大きな喜び驚きを何故求めないのですか、何故神示を食べないのですか、見るばかりでは身につかないのです、良く噛みしめて味わって喜びとしないのですか、喜びが神なのです、次には神との交わり、交流です、和です、そこにこそ知らざりし驚きと大歓喜が生まれるのです、神との結婚による絶対の大歓喜があるのです、神が霊となり花婿となるのです、人民は花嫁となるのです、神霊の花婿はいくら年を経ても花嫁を捨てはしないのです、永遠に続く結び、結婚です、何ものにも比べることの出来ない驚き、喜びです、花婿殿が手を差し伸べているのに何故に抱かれないのですか、神は理屈では分からないのです、夫婦の交わりは説明出来ないのです、神が分かっても交わらなければ、神と融け合わなければ真理は分からないのです、何とした結構なことかと人民がびっくりする仕組みなのです、神と交流し結婚した大歓喜は死を越えた永遠のものです、消えることの無い火の大歓喜です、これが誠の信仰です、神は花嫁を求めているのです、早く神の懐に抱かれてください、何事が起って来ても先づ喜んでください、それが苦しいことでも悲しいことでも喜んで迎えてください、喜ぶ心は喜びを生むのです、人民が喜べば神が喜ぶのです、天地が晴れるのです、輝くのです、そなたは先ばかり見ているのです、自分の足で歩くのです、足元に気をつけなければならないのです、そなたは自分一人で勝手に苦しんでいるのです、皆で仲良く相談してください、相談は結構なことです、相談して悪い事は気をつけ合って進んでください、分からない事は神示に聞くのが良いのです、遠慮は要らないのです、そなたは一足飛びに二階に上がりたい気持が抜けないのです、何事も一段ずつ、一歩づつ進まなければならないのです、それより他に進み方は無いのです、先づそなたの中にいるケダモノを言向け合わさなければなりません、よく話し教えて導かなければなりません、ケモノを人間と同じにしようとしてはならないのです、ケモノはケモノとして導かなければなりません、金は金、鉛は鉛です、鉛を金にしようとしてはならないのです、鉛は鉛として磨かなければならないのです、浄化とはそのことです、世は七度の大変り、いよいよの段階に入ったなら、何が何だか、我よしの人民にはいよいよ分からなくなり、焦れば焦るほど深みに落ち込むのです、心の窓を大きく開いて小さい我の欲を捨てると遠くが見えて来るのです、見えたら先づ自分の周囲に知らさなければなりません、知らせることによって次の道が開けて来るのです、自分だけでは嬉し嬉しとはならないのです、嬉しくないものは弥栄えしないのです、冬になったら冬ごもり、死ぬ時には死ぬのが弥栄えです、遊ぶ時は遊ぶのが良いのです、言(コト、光透)と時とその順序さえ心得ていれば何をしても、何を話しても、何を考えても良いのです