イエス様と生きる 2024年03月03日 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

天と地を 創造された 神様が「ある」

神様はある ないと言う人 人とは言えぬ

神様は 人を創造 息吹きを入れた

息吹きこそ 人の証明 息を感じる

神の息 感じとるので 人の証明

神の息 感じなければ 息は苦しい

神の息 三五七に 波打つリズム

ひふみとは 神の息吹きで 祝詞と同じ

神様の 息吹きに合わせ 天地に生きる

日月神示 扶桑の巻

東は扶桑(二三)です、日が出る秋(とき)は到来しました、この巻は扶桑(二三)の巻です、続く六の巻を合わせて七巻の一百四十四帖の黙示を五十黙示と申してください、イシがものを言うと申してありましたが、イセにはモノを言うイシがあると昔から知らせてあるのです、五の一四(イシ)がものを言うのです、開けば五十となり五百となり五千となり、握れば元の五となり、五本の指の様に一と四であるのです、この方を五千の山に祀れと申してあるでしょう、これがイチラ(五千連)、五十連(イツラ)です、分かりましたか、五十連が世に出るのです、天に神の座がある様に地にも人民の座があるのです、天にも人民の座があり地にも神の座があるのです、七の印(しるし)と申してあるのです、七とはモノのなることです、天は三であり、地は四であると今までは説かせてあったのですが、いよいよ時節が到来して、天の数二百十六(216)、地の数一百四十四(144)となりなり、伊邪那岐(三)となり、伊邪那美(二)と成りなって、ミトノマグワイをして五となるのです、五は三百六十(360)です、天の中の元のあり方です、七の燈台は十の燈台となり出る時となったのです、天は数であると申してあるでしょう、地はイロハ(意露波)です、分からない者が上に立つことになるのです、大グレンは目の前なのです、日本だけのことではないのです、世界中のことなのです、今度は三千世界が変るのですから今までのような建て替えではないのです、何もかも鏡に映るのです、鏡が御神体です、何も映らない御神体の鏡では何もならないのです、中臣の太祝詞ことふとに宣りあぐ、一はいくら集めても一なのです、分からない者をいくら集めても分からないのが道理です、二は二、三は三であるのです、一を二つ集めても二にはならないのです、人民は大変な取り違いをしているのです、〇(レイ)が元です、渦が元です、一(ヒ)が元です、結びです、弥栄えです、よく心得えてください、世の元の〇の始めから一と現われるまでは〇を十回も百回も千回も万回も繰り返したのです、火と水(一と三)のドロドロ(十ろ十ろ)であったのです、その中に五色五頭の龍神が御ハタラキなされて造り固めなされたのです、今の人民は龍神と申せばすぐに横を向いて耳を塞ぐのですが、誠のことを知らせなければならない時ですから分かるように申しているのです、龍神とは理神(理⦿)です、五色の龍神とは国常立尊の御現われの一(ひとつ)です、戒律をつくってはなりません、戒律がなくてはグニャグニャになると思うでしょうが、戒律は下の下の世界、今の人民には必要であっても、いつまでもそんな首輪は要らないのです、戒律する宗教は亡びると申してあるでしょう、高天原に千木高しりて仕えまつらむ、岩戸(言答)が開けたその当座は、不合理に思えることばかりが出て来るのです、逆様の世界がこの世界に入り交じるからです、親よりも子の方が早く目覚めるのです、子が親となるのです、逆様の世界と申しても悪の世界ではないのです、霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのです、嬉しい恐い世界が近づいて来ているのです、罪穢れ今はあらじと祓え給いそ、空白とは九八九です、八と九、九と八の境を開くことが岩戸を開くことです、空白とは最も根本を為す最も力あることです、八塩路の塩の八百会母います国、天の声があるのです、地の声があるのです、和して十の日月地(くに)と現われるのです、五十人の仁人が出て来るのです、仁人とは神人(カミヒト)のことです、この仁人が救世主です、救世主は一人ではないのです、各々の民族に現われて五十人ですが、五十という数に囚われないでください、五十人で一人です、数に囚われると分からないことになり岩戸閉めとなるから気をつけておくのです、祓いため千城百国精治万歳、三年と半年、半年と三年です、その間は暗闇時代、火を灯しても暗いのです、明るい人民は闇でも明るいのです、日は三日と半日、半日と三日、次に五年と五年です、五日と五日です、このことは間違えないでください、手足の爪まで抜き取られ、とてもあり得ないむごいことにされて追いやられたのですが、誠は誠です、時が巡り来て我(が)が取れたので光が射し染めたのです、岩戸が開けたのです、神が苦しむ時は人民が苦しみ、人民が苦しむ時は神も苦しむのです、世界中の苦しみ、地上の苦しみ天上の苦しみです、この大峠を越してから大いなるタメシがあるのです、人の心の難しさは計り知れない程なのですが見ていてください、見事なことを致して見せるのです、岩(一〇)隠れし比売(ヒメ、秘命)のミホト(実秀答)は焼かれ給いて、三分の一の人民になると早くから知らせてあったことの実地がはじまっているのです、何もかも三分の一です、大掃除して残った三分の一で、新しい御代の礎と致す仕組みです、三分難しいことになっているのを天の神にお願いして一人でも多く助けたさの日夜の苦心なのです、カンニンのカンニン、ガマンのガマンなのです、九⦿(光ノ神)の花が咲くのです、平坂の岩戸(言答)ひらけむ音の聞こえる、神に怒りはないのです、天変地異を神の怒りと取り違いしてはなりません、太神は愛にましまし真にましまし善にましまし美にましまし数にましますのです、また総てが喜びにましますが故に怒りはないのです、もし怒りが出た時は、神の座から外れてしまうのです、救いの手は東(ひむかし)より差し伸べられると知らせてあるでしょう、その東とは東西南北の東ではないのです、このことはよく分かってください、今の方向では東北(ウシトラ)から救いの手が差し伸べられるのです、ウシトラとは東北です、ウシトラコンジンとは国常立尊です、地(千、智)の元の天地の元の元の元の神です、始めの始め終りの終りです、弥栄えの弥栄えです、基礎(イシヅエ)です、ささげてむ和稲荒稲(わしねあらしね)横山のごとく、五人がいるのです、中二人外三人、この仕組みは天の仕組みです、一切と手をつながなければなりません、人民だけで世界連邦を作ろうとしてもそれは出来ない相談です、片輪車と申してあるでしょう、目に見えない世界、目に見えない人民とタテのつながりをつけなければならない道理です、人民同士の横糸だけでは織物にはならないのです、天は火、地は水です、火水組み組みて織りなされたものが、ニシキの御旗です、ヒミツの経綸(しくみ)です、赤丹(あかに)の頬にきこしめしませ御酒(みき)たてまつる、何事が起って来ても先づ喜んで迎えねばならないのです、近づいて来るのは呼び寄せたからです、こんな嫌な汚いものはごめんだと申す人民もありますがそれは皆己の心のうつしなのです、内に無いものが外から近寄る道理は無いのです、どんなものでも喜んで迎えると喜びとなる結構な仕組みを良く会得してください、何事も一段づつ一歩づつです、一足飛びは大怪我の元なのです、沖つ藻葉辺津藻葉です、母しらす御国の五のハタラキは何れも十の翼を持っているのです、足は十本です、更に五十の翼となりなる仕組みです、五十の足がイツラですがイツラでは動きは取れないのです、四十九として働いてください、真中の一は動いてはならないのです、真中動いてはならないと申してあるでしょう、時が過ぎて種を蒔く人民が多いのです、人民と申すものは天狗ですから自分は良いのだが、世の中が悪いのだと申しているのです、世の中と言うものは大神のハタラキの現われですから、大神の中での動きですから、世の中が悪いと思うのは大神が悪いと思うことになるのです、そこに底知れぬ程の魔の仕組みがあるのですから気をつけておくのです、進(たてまつ)る宇都の幣帛(みてくら)聞し召したべ、神の御手に巻物があるのです、その巻物の数は五十巻です、この巻物を見たものは今までに一人もいなかったのです、見ても分からないのです、巻物を解いて読もうとすれば、それは白紙となってしまうのです、人民には分からないのです、説くことは出来ないのです、巻物は天の文字で書いてあるのです、数字で書いてあるのです、無が書いてあるのです、無の中に有が記(しる)してあるのです、心を無にすれば白紙の中に文字が現われるのです、時節が到来して誰の目にも黙示とうつるようになった有難いことなのです、岩戸が開けていよいよの時となったのです、始めからの巻物を良く読んでください、良く選り分けてください、何もかも一切明らかに刻まれているのです、残る十二巻と一巻は人民では分からないのです、無の巻物です、空に書いてあるのです、称言(たたえごと)太祝詞(ふとのりと)こと今ぞ高らに、木でも草でもすべて中から大きくなるのです、つけ焼刃や膏薬貼りで大きくなるのではないのです、三千年に一度と言う、又とない結構な時がめぐり来ているのです、為せば成るのです、難しいことを申しているのでは無いのです、自分の中の自分を掃除して自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのです、磨けば神と同列のミタマなのです、釈迦でもありキリストでもあると申してあるのです、内にあるものを磨けば外から響くものも磨かれた、穢れのないものとなるのです、中の自分を掃除しないでいるといつまで経っても、岩戸が開けていても岩戸は開かないのです、青海原青垣山の内(宇宙)に御子生まれる、神の御座(みくら)のまわりには十の宝座があるのです、十の宝座は五十と五十、百の光となって現われるのです、大摩邇は百宝を以って成就すると知らせてあるでしょう、五十種の光、五十種の色と申してあるでしょう、光の中に百億の化仏(けぶつ)であると申してあるでしょう、百が千となり万となり億となるのです、今までは四の活物(かつぶつ)と知らせてあったのですが、岩戸が開けて五の活物となったのです、五が天の光であるのです、白、青、黄、赤、黒の色です、百不足(ももたらず)八十隈手(やそくまで)今開かん時ぞ、天のことは今までは人民には分からなかったのですが、時がめぐり来て、岩戸が開けて分かるようになったのです、今までの人民であってはならないのです、地そのものが変っているのです、人民は我(が)が強いから一番遅れているのです、人民の中では宗教人がさらに遅れているのです、神人(カミヒト)とならなければ生きては行けないのです、天地がアメツチとなって来ているからです、天も近くなり地も近くなると気をつけてあったのに目覚めた人民は少ないのです、今に昇り降りで急しくなり、衝突する者も出て来るのです、他人におんぶされたり車に乗せられていた人民達はもうその時は過ぎているのですから自分の足で歩まなければならないのです、大地を踏みしめてください、大地の気が身内に甦るのです