東京府庁は富田鉄之助が東京府知事だった1894年に完成している。妻木頼黄の設計である。

富田は1891年、明治24年7月に東京府知事に任ぜられ

1893年10月依願退職をしている。この翌年に東京府府庁舎は落成している。富田が在職中に設計に着手していたと考えられるから、ここにも富田と妻木の深い関係が見て取れる。

富田は1893年、明治26年4月、東京の水道問題解決のため三多摩地方を神奈川県から東京府に編入した。これにはずいぶん反対があった。三多摩はもともと東京だと思っている人は大きな間違い。もともとは神奈川県だったんです。この問題は「水道問題と明治26年三多摩編入始末記」に詳しい。富田は暴行を受けたりしている。自由党の選挙地盤が失われるというので議会も紛糾した。しかし、この編入のおかげで玉川上水の水質は保全されたのであり。富田は「東京の水の恩人」であるということです。東京府の水道事業は富田東京府知事の元に1891年11月に工事事務所が設置され、退任後の1899年に竣工した。

 

東京府庁・1894年・妻木頼黄

 

西プロイセン州議会。エンデ・ベックマン事務所・1880-1882年

 

明治の東京計画 帝国国会議事堂。1887年和洋折衷案・エンデ

東京府庁舎は

施主は東京府 知事は富田鉄之助であった。富田を府知事に任命したのは横浜正金銀行問題で争った松方正義であった。

一方、エンデ&ベックマンの東京計画がご破算になり、その夢の形を妻木は帰国する妻木とともに来日したゼールとともに東京府庁の設計でで政府に仕返しをしたのではなかったか。言い過ぎかもしれない。失礼しました。それを許したのは富田鉄之助、仙台藩・幕臣・勝海舟門下であったと考える。この後、妻木は富田の庇護のもと設計活動を続けていく。この延長に上野の設計者不明の上野パノラマ館の真の設計者の姿がおぼろげに見えるのである。もっとも竣工する前年の4月に富田は東京府知事を依願により免ぜられる。ここに何があったのか。この府庁舎をめぐっての争いがあったのではないか。そんな風に想像している。帝国パノラマ会社にかかわった元横浜正金銀行初代頭取の中村道太の生涯もそのようであった。富田が初代の日銀総裁に推挙やれたが固辞したのも薩長の横やりで長くは続かないだろうということを言い、総裁を薩摩の吉原を置くという条件のもと風当たりが弱くなるだろうということで副総裁を引き受けたという。しかし、やはり対立してしまう。相手は松方正義だった。いつでも薩長派閥が旧幕臣の仕事を邪魔をする。そんな時代だった。しかし、それも山口県府庁でどんでん返しが起こる。