●富田鐵之助
1835年 天保6 10月16日 仙台良覚院丁に生まれる
1856年 安政3 6月 父実保逝去
1857年 安政4 仙台に帰り仙台藩より西洋兵法調錬講武場西洋砲術助教を命ぜられる。
1863年 文久3 蒸気機関並びに海軍修行のため再び江戸に上る
1866年 慶応2 9月 藩命により三度京都に上る
1867年 慶応3 3月 藩表江戸奉行よりの命に接して江戸にもどる。
7月 勝小鹿に随行して米国に留学のために出発
9月 ニューヨークに到着
1868年 慶応4 徳川幕府崩壊
11月 帰朝
12月 再渡米
1869年 明治2 2月 ニューヨークに到着
1870年 明治3 11月 ニュージャージー州、ニューアーク商業学校に入学
1872年 明治5 2月、特命全権大使岩倉具視の渡米に際し随行、大使よりニューヨーク在留領事心得を命ぜられる。
1873年 明治6 2月 太政官よりニューヨーク在勤副領事を命ぜられる
1874年 明治7 7月 帰朝
10月4日 福沢諭吉の媒酌で杉田 縫と結婚
11月 森有禮とともに商法講習所の創設準備
11月 ニューヨークに帰任
1876年 明治9 上海総領事を命ぜられるが赴任せず。5月妻木源太郎の子息、妻木頼黄と出会う。
1877年 明治10 外務省書記官に任ぜられる
1878年 明治11 外務省一等書記官、英国公使館在勤命ぜられる。
1879年 明治12 臨時代理公使
1881年 明治14 3月帰朝
10月 大蔵権大書記官任ぜられる
横浜正金銀行管理掛を命ぜられる。
仙台造士義会を創立
1882年 明治15 3月 大蔵大書記官に任ぜられる
6月 日本銀行創立委員を命ぜられる
10月6日 日本銀行副総裁を仰せつかる。
1888年 明治21 2月22日 日本銀行総裁を仰せつかる
1889年 明治22 9月3日 日本銀行総裁を免ぜられる。
11月 東京市会議員に当選、東京市麻布区会議員に当選
1890年 明治23 7月 東京市名誉職参事会員に当選、貴族院議員勅撰される。
1891年 明治24 7月 東京府知事に任ぜられる。
1893年 明治26年10月 東京府知事免ぜられる
1896年 明治29年2月 富士紡績株式会社 取締役会長
11月 鉄道会議員、日本勧業銀行設立準備委員を命ぜられる。
1897年 明治30年 横浜火災保険株式会社の創立に関与して取締役社長になる。
1898年 明治31年 日本鉄道が武式会社理事委員になる
1900年 明治33年 i日本鉄道株式会社取締役になる。
1901年 明治34年 日本鉄道株式会社取締役辞任、。
1912年 明治45年 横浜火災保険会社取締役会長を辞任
1914年 大正2年 横浜火災保険株市区会社取締役 辞任
1916年 大正5年 逝去 82歳
天保15年十歳の富永は藩の儒学者氏家省吾について漢学を収めた。
嘉永四年17歳の時に馬術を岩淵甚左衛門に学び槍術を野村新右衛門に県道を山崎源太左衛門に馬術を渡辺岱平に
弓術を遠藤勇五郎学んだ。
安政三年 22歳の時真田喜平太の門に入り西洋砲術を収めたたが藩命により向こう三年間の西洋砲術伝習を命ぜられ江戸に上り、下曽根金三郎の道場で修業をし、この間赤城圭斎から蘭学を学ぶ。
安政四年 23歳の時仙台に戻り
文久二年28歳の時に蒸気機関並びに海軍術の修業を命ぜられ江戸に上り赤坂氷川町にあった勝海舟の氷解塾の塾生となる。これが、勝海舟と富田鉄之助の出会いである。この時坂本龍馬も塾生となる。勝海舟は40歳であった。
藩命で京に上り勤皇佐幕の嵐を身をもって体験する。
慶応三年,藩より江戸にもどることを命ぜられる。仙台藩江戸表奉行から勝海州の子息勝小鹿の米国留学に随行するように申し渡された。富田とともに選ばれたのは高木三郎である。人選は勝海舟が行ったようである。
慶応三年米国船コロラド号で横浜を出発する。この時、高橋和吉(のちの高橋是清。)と鈴木六之助が仙台藩を脱藩同様の形で船に乗っていた。約二か月かかりニューヨークに上陸する。しかし、間もなく徳川政権は崩壊する。
慶応四年勝小鹿を残し富田と高木は帰国する。しかし、勝海舟に区国の理由の話をしたところ、憤然と勝に諭されたという。
「汝らの考えは浅薄であった。今度の政変に於いて徳川の政治を持続せんとするがごときは至愚迂闊の極みである。殊に東北は甚だ人材に乏しく、徒らに国の大を恃みて尊大不遜の挙に出は世界の大勢を知らざるのみ。忠告を加えるも咀嚼の力なし。・・・・・・・・汝らを海外に留学せしめたるは、東北の人物の欠乏を補わんためであった。軽々に帰りくるは甚だ我が意に背く」と。藩からの留学資金が途絶えることに触れその金を留学を望むなら勝が面倒みるといわれた。
二人は、明治二年、米国戦チャイナ号で米国へ向かった。富田34歳の時だった。のちにこの二人の留学は政府からの留学生に切り替えられた。富田はニュージャージー州ニューアークのホイットネー主宰のBryant,Stratton Whitney商業学校に入学する。英語はホイットネー家に下宿しその妻、アンナから聖書を教材に学ぶ。聖書を教材にすることを提案したのは富田だったそうである。
二年近く経過した、明治4年1月日本政府米国駐在公使に森有禮が赴任してきた。
森が赴任してから一年後の
明治5年1月。岩倉具視を特命全権大使とする一行が渡米してきた。いわゆる米欧回覧である。
この時、富田は大久保利通、伊藤博文等の知遇を得ることになる。
この縁がきっかけとなり
明治5年2月2日に紐育在留領事心得になり
明治6年2月20日に副領事の辞令を太政官から辞令を受領する。富田38歳であった。
紐育副領事中の
明治7年、富田は杉田縫と結婚する。仲人は福沢諭吉、この結婚は面白い。なぜかというと、結婚契約をしていることだ。杉田縫は杉田玄白の一族である。契約書の行禮人は福沢諭吉、証人は森有禮である。
明治9年8月12日紐育副領事の富田に帰国命令が出る。
明治9年3月10日、単身で妻木頼黄は米国に渡ろうとした。
明治9年5月、紐育副領事、富田と妻木源三郎の息子頼黄は紐育のブロードウェイで運命的な出会いをする。
暇があるごとに領事館など往って遊んでいたという妻木は領事館で神鞭知常、相馬永胤(第6代横浜正金銀行頭取、1897.3--1906.3)、目加田種太郎ぬ(勝海舟の三女が嫁いでいる。専修学校、東京芸大の創始者のひとりして知られる。)の知遇を得、特に神鞭には帰国して勉学をやりなおし再度渡米をすることを説得される。
その4ケ月後に富田は帰国する。
明治9年9月19日に紐育を出発、東京に着いたのは10月26日だった。
明治10年6月5日、妻木は朝比奈一らとともに帰国した。
妻木と吉田の人間関係が絡まる原点を書いてみた。その後の展開は作品ごとの絡みごとに考えてみる。
妻木がベルリンから帰国後、最初に手掛けたと思われる民間の建築物の設計にかかわる人物の一人としてこの人の略歴を押さえておく必要がある。
●中村道太略歴
1836年 天保7 三河吉田藩士の子として生まれる。
1866年 慶応2 江戸詰を命ぜられる。福沢諭吉と出会う。
1870年 明治3年 好問社学習所(女子教育学校)を豊橋に設立
1872年 明治5年 福沢諭吉の勧めで丸屋商社(福沢諭吉門下の早矢仕有的の)に入社し共同経営者となる。
1879年 明治12 12月11日横浜正金銀行設立す。初代頭取
1882年 明治15年7月 横浜正金銀行頭取辞任
1883年 明治16年 弟の平山甚太昼花火の技術を米国で特許を取得 平山甚太は横浜商法学校の創立発起人。
1888年 妻木頼黄 ベルリンから帰国。富田鉄之助は日本銀行総裁に任命
1889年 明治22年 帝国パノラマ会社の上野パノラマ館建築に関与する。
1921年 大正10年1月3日 逝去
薩長閥の官僚によって終生、その商才を妨害される人生だった。
●妻木頼黄
1859年2月22日 生まれる
明治9年 単身、米国に渡る。
1878年 明治11年 工部大学校造家に入学
1882年 明治15年コーネル大学建築学科に編入
1885年 明治18年 帰国
1886年 明治19年 臨時建築局に勤める。
1888年 明治21年 ドイツから帰国
1894年 明治27年 東京府庁建築
1898年 明治31年 旧丸三麦酒 醸造工場
1899年 明治32年 日本勧業銀行
1904年 明治37年 横浜正金銀行
1904年 明治37年 日醸造試験場第一工場
1909年 明治42年 井伊直弼像台座
1909年 明治42年 横浜正金銀行大連
明治42年 中国銀行大連
1910年 明治43年 横浜正金銀行北京
1911年 明治44年 旧横浜新港埠頭倉庫
日本橋
旧内閣文庫庁舎
1912年 大正元年 日本赤十字社
1914年 大正3年 拓殖大学恩賜記念講堂
1914年 大正3年 旧山口県庁舎
1916年 大正5年 10月10日 逝去(57歳)
そして、井上馨、桂太郎、都築敬六、森鴎外。