性欲発散としてのチョコレート、恋愛至上主義(セックス至上主義)、フェミニズムの起源はスピリチュアル(オカルト)

 

 

 

 

性欲に不能になった女性は、お菓子を食べまくる。生理的な欲求が満たされないと女性はチョコレートに飛びつくのだ。(p.192)

 

女性が、甘い物が大好きな理由。

グローバル企業ネスレ(世界の銀行が集まるスイスに本社をもつ、キットカットのメーカー)は、CMで男性は不能、女性はパワフルで自立したイメージを植え付ける。妻が一家の大黒柱であり、夫は玉なしのボンクラ的な。(男卑女尊の心理作戦)

 

 

やがてフェミニズムの正体が明らかになるだろう。

フェミニズムは女性と異性愛を敵視する反社会運動で、男性と女性を中性化して、生涯の絆を持てないようにしている。女性を本来の姿から外れた仕事と不特定多数とのセックスに駆り立て、男性が求める女性像を歪めているのだ。女性が男性のアイデンティティを奪った結果、男女が共にアイデンティティを失うことになった。(p.200)

 

本書の内容がひとことでまとめられている。

 

 

男らしさとは「力」である。男は私的な集団である家族に、物理的、社会的、文化的な枠組みを与える。男は守り、養う存在で、リスクを恐れず冒険心に富み、必要な物を造っていく。

女らしさは、「愛し愛されること」だという。女性の心には夫と子供の世話をする本能が宿っていて、その見返りに愛されて必要とされることを求めている。女性は、身体に血液を循環させる心臓のように、家族に愛を巡らせる存在なのだ。(p.202)

 

昭和の家族観に近い。まぁ、フツーというか昔では当たり前の価値観だった。

 

 

一方、ビキニ姿のアメリカ人のミスコン優勝者は、数百万人の視聴者の前で裸同然でウォーキングを披露する。フェミニストは自分は自分だけのものだと主張するが、実際にはこのように社会に身をさらし、不特定多数の男性の所有物になっている、(中略) アメリカにおいては、セックスアピールが女性の市場の価値だとみなされている(p.228)

 

たしか、三島由紀夫も同じ様なことを「不道徳教育講座」で書いていた。

 

不特定多数の人にセックス・アピールを売り捌くというのは、立派な精神的売淫であり、これを材料にお金をもうけている人は、一種のツツモタセかもしれない。(中略) これは女にも男にもあるので、一度自分の肉体的魅力を知った人間は、その日から、世間全体にむかって、微妙な「精神的売淫」をはじめます。(p.111)

 

恋愛至上主義というか、セックス至上主義というか、日本もアメリカの属国だからそうなりつつある。

日本でグラビア雑誌が流行ったのは昭和からだし、それ以前の明治時代や江戸時代にはもちろんそんなモノ無かった。

 

異教のフリーメイソン文化の影響で、人々は若い女性を賛美して、セックスを崇拝するように洗脳されてしまった。

恋愛はもう一つの宗教となり、性行為はその宗教における聖体拝領の儀式になった。セックスは今や、人生で最も喜びに満ちた奥深い体験だと考えられている。(p.250)

 

著者自身も若い頃はこうだった。

マネー真理教ならぬ、セックス真理教ですな

 

 

フェミニズムの起源は、オカルトのカバラ主義やグノーシス主義に見いだすことができる。これらの思想では、結婚や家族をフリーセックスやオカルトによる社会支配の障害とみなしている。(p.262)

 

ギルガメシュ叙事詩の「リリス物語」におけるリリスのこと。

セックスで夫(アダム)の下になることを拒み、いつも言い争っていた。

 

スピリチュアルのニューエイジ思想とやらも、グノーシス主義がベースになっていましたね。

現代のスピリチュアルがオカルトまがいのものが多いのも納得。