圧迫し 痛み違和感 取り除く
指圧の力で 身体は楽に
季節の変わり目なのか,最近は肩凝りや背中の痛みと違和感があり,就寝前には,中山式快癒器・4球式を使い,背部を指圧しした後に,寝ているのですが,腰椎から胸椎までを,5分くらいかけて適宜に圧迫してゆく際には,脊椎を傷めないように気を使い,中山式快癒器を使っているのです。
ところで,社会では,旧統一教会と国会議員との関係が取りざたされているが,集票のため宗教団体に頼るのは,公明党と同じであると思われるところ,旧統一教会をめぐる霊感商法については,如何かと思われるのです。
そんな訳ではないのですが,以前に投稿していた,一農夫の宗教観及び神仏の御加護について,再投稿してみたい。
2015/2/19
一農夫の宗教観
昨日の夜から降り始めた雨が山々では雪になっていたのか,三坂峠から皿ヶ嶺あたりの山頂付近では薄っすらと雪化粧されて,雲の間から日差しを受けた山肌が不思議な輝きを見せており,水墨画でも眺めているような景色が広がっておりました。
今日も一日が無事に終了したが,細々とした生活ではあるけれども事故や病気のない毎日が続いていることは有りがたく,世界には貧困のため日々の生活もままならぬ人々が存在していることを考えれば,今の生活で十分である。
寝言のほうは相変わらず自由気ままに書いているところ,断言できない事柄が多くあり寝言と表現しているが,世の中には様々な考えがあるので,これもありかなと思いながら綴っております。
ところで,権力者は宗教を恐れ宗教家は権力を恐れる傾向にあると勝手に思い込んでいるが,混沌とした世界を救うには権力者と宗教家が互いに車の両輪となり,権力を保持している者はテロや戦争のない世界を実現させるために本領を発揮し,宗教家は神の言葉を諸人に伝えつつ人々の心を癒せば,世界が丸く収まるのではないかと思ったことがあり,小生なりに持っている宗教観のようなものを認めていたので,ひとまとめにしておきたい。
(2012/1/20)
神々からの警告
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロは,世界中の人々を驚愕させ,更なるテロの心配から,関係諸国はこれを封じ込めるために知恵を絞っていたところ,2011年5月2日に首謀者ウサーマ・ビン・ラーディン容疑者が,パキスタンにおいて米軍の特殊部隊に殺害され,一応の落ち着きを見せたようである。
これにより,対テロが及ぼす世界各地域での凶悪事犯は減少傾向にあるが,簡単にはテロを撲滅に追込めないのも事実である。
9.11では,ニューヨークの世界貿易センタービルに,ハイジャックされた航空機が激突し,多くの尊い命が失われ,テロリストは何故あれほどまでに酷い仕打ちを与えたのか,その蛮行は憎まざるを得ないところ,ジハードと称して突入したであろう実行犯は,イスラム原理主義を崇拝する人々にとっては,殉教者となるのかも知れない。
しかしながら,如何なる理由があろうとも,テロは絶対に許されず,全世界の人々が最も非難すべき行為なのでしょう。
タイトルに「神々からの警告」と大げさに書いたが,一農夫にそれを証明する知恵はないものの,百姓の寝言として一言述べるなら,
アメリカ同時多発テロ事件を発生させた原因は様々であろうが,2001年3月12日に,タリバンがイスラムの偶像崇拝禁止を理由としてバーミヤンの大仏を破壊し,その後6カ月を過ぎようとした9月11日には,タリバンの同盟者であるアルカイダの自爆テロ犯が,ハイジャックした航空機を世界貿易センタービルへ激突させた事実は,全世界の人々の知るところである。
さて,二つの事件は別々な事情であり何ら関係ないと思われるが,ひょっとして大仏破壊よる因果がなかったのか気にかかっておりました。
仏教では因果応報・輪廻転生について語られることもあり,イスラム教・キリスト教と比較すれば教えの違いはあるのでしょうが,神々が人間に何かを問いかけているような出来事であったと思われたのです。
(2012/5/2)
心の眼を開いて
イランでの牧師拘束に抗議するため,4月29日アメリカ人牧師がフロリダ州の教会で,イスラム教の聖典であるコーランを焼却した。
これに対してイラン政府のスポークスマンは,アメリカ人牧師の行動をイスラムの神聖に対する侮辱的行為であると強く非難していた。
汝心の中で犯すことなかれ,隣人を愛せよと教義を説いているなら,コーランを燃やしてはならないのであろう。
一方,目には目を歯には歯をとの教えでは,本来は報復しなさいという意味ではなく,自己の身に降りかかった災難に対し,同じ出来事を二度と受けないために,知恵を働かせよとの教えであると思われるので,コーランを燃やされた事実に対して怒るべきではない。
そもそも,お釈迦様やキリストもマホメットも,地球創世の主たる神が,何れ世界中に飢餓や戦争が満ち溢れるであろうと予言し,人々の永遠なる幸福を確保させるため,順次地上に遣わされた使者であったと思えてならないのです。
世界中の宗教指導者の皆さん,心の眼を開いて,耳を澄ませてみませんか。
宗祖の言葉が聞こえてくるはずです。
弟子たちよ,もっと高いところから物事を見なさい。
宗教家なら戒律を守り抜き,今は何を為すべき時であるのかを知りなさい,と語りかけているではありませんか。
一農夫にも薄々ではあるが,賢者からの言葉を,感じ取ることが出来るのです。
(2012/8/13)
信仰心について
住宅街の細い道路を原付バイクに乗って走っていると,2~3人のエホバの証人であろうと思われる信者さんが,布教のため歩いているのを時々ではあるが見かけます。
服装が清楚で,女性なら日傘をさしており,もの静かな様子から,それとなく分かるのです。
我が家にも足を運んでもらい,聖書の言葉を聞かせて頂いたが,布教する信者さんは心からイエス様の教えに従い,日々を安らかに生きておられるようで,頭の下がる思いをしたことがありました。
信仰心については,イワシの頭も信心からと聞いたことがあり,誰でも神仏に頼りたい時があるようです。
そんな時には,神様・仏様に向かい己の罪なるところを懺悔したり,お祓いを受けて,新たな気持ちにて,人生を歩もうとする。
また,普段は神社仏閣に出かけなくても,正月には初詣に出かけ.一年の無病息災を祈願するという,日本人なら誰でも経験している神頼みもあるが,これも立派な信仰心のようである。
我が家では,先祖の代から真言宗を信仰しているが,先祖祭り等がなければ,お大師様と対峙する機会が少なく(二世帯住宅のため),普段は和式箪笥の上に祀っている天照大神様・八百萬の神々の皆様方にお供えしている盃と榊の水を毎朝交換した後に,祝詞(大祓詞)を唱えており,こんな信仰心で良いのかと反省する朝もありました。
ところで,小生の知人で刑務官をされていた人から聞いた話になりますが,一人の受刑者(刑が確定した後にキリスト教に入信)と接していた厳冬のある朝のこと,その受刑者と普段のとおり挨拶をした際に,凶悪犯で収容されていた本人が,一瞬キリストに見えたと話しておりました。
この話を聞いて,辛くて苦しい受刑生活の中にあっても,信仰することにより一筋の光を見つけることが可能となり,それを更生への道しるべとし,己の行いを悔い改め,新たな人生に向かって生きてゆける事が出来るものだと思った記憶があります。
さて,日本国憲法第20条では信仰の自由が認められており,外国の一部国家のように,宗教が原因で迫害されることはないが,信仰心については諸外国の人々より少ないのかも知れない。
それが幸せと言えるのかどうか,小生には答えられないが,天照大神を中心にした国家に住んでいるという誇りは持ちたいと思っているのです。
(2015/1/24)
心の闇に明かりを灯そう
テレビ報道によれば,1月7日にフランスで風刺新聞社(イスラム教の預言者の風刺画を掲載)の襲撃事件が発生して以来,テロ行為に対し抗議するべく,表現の自由を訴えるためのデモが,世界各地で行われていた。
また,1月20日にはイスラム国が日本人2人を人質に取り,日本政府に対し72時間以内に2億ドルを支払わなければ殺害すると表明したが,その72時間が過ぎ去った現在においても各方面からイスラム国と水面下での取引が行なわれているようである。
風刺画については,イスラム教徒でなくとも違和感があるものの,テロという行為は許されるものではない。
イスラム国による,日本人を人質にした事件では,エジプトを訪問中の安倍総理が1月17日に中東地域の平和と安定に向けて25億ドルの支援を表明し,その内の2億ドルをイスラム国対策として支援すると約束したことからイスラム国が反発した感が拭えない。
ところで,イスラム教においては一日に5回メッカに向かってお祈りをするらしいが,イスラム国を名乗る集団に属している戦闘員も同じお祈りをしているなら,そろそろテロ行為は止めて国際社会の一員として生きてゆくための道を探してみないかと助言してはどうだろう。
おいさん,寝言を言われんぜとの言葉が返ってきそうであるが,
我が国においては,第二次世界大戦下であったとはいえ,国内の主要な都市に空爆を受けたばかりか広島・長崎へ原爆を投下されながらも復興を遂げており,
イスラム国においても,忌まわしい過去と決別すると共に新たな国家を樹立し,本来のイスラム教徒に戻ることがイスラムの教えに従ったことになるのではなかろうか。
そのためには,自ら武器を捨てて拘束している人質を全員解放することが肝心となり,国際社会においてもイスラム国を独立した国家として認める必要がある。
さて,今でこそ国際社会の中で,経済的にも軍事的にも大国であると自負していても,大航海時代に始まった,ヨーロッパ人によるアジアやアメリカ大陸の植民地化を目指した頃から20世紀前半の時代にかけては,紳士の顔はしていても銃で人々を脅かし殺傷を繰り返しては領土を奪い植民地として支配下に置いたという歴史があり,
イスラム国にも,生き残れる道があるのなら,過激派組織ではあるものの,実効支配している地域を国際社会が領土として認めてやり,敵対国同士においては血を血で洗う戦いを終結させることが不可欠であろう。
さてさて,小生のような凡人でも妻や子供が殺されたなら,それなりに覚悟を決めるのであろうと思われるが,
イスラム国の人々の心の闇に明かりを灯すのは並大抵ではないところ,
我が国が,今後も平和国家としての道を歩もうとするなら,2億ドルをイスラム国のテーブルの上に置いて人質と交換するとともに,イスラム国の今後の処遇についても同テーブルを囲み各国のネゴシエーターと話し合い,イスラム国が納得のいく結論を得たならば,国際社会の一員として受け入れることも検討すべきであると考えを深めておるのです。
久しぶりに本物の寝言となったが,毎朝の勤めの際には,世界の人々が平和に暮らせる日が訪れますようにと祈願しており,
その一心から綴られた文章であり,小生はイスラム国に一切関係ないことを申し添えておきます。
(2015/1/27)
恨みを浄化させるには
今日も一日が無事に終了した。
1月も最後の週となっており,そろそろ田畑での仕事を始める頃となっているが,本日においても心のエンジンがかからず,結局のところ家の中でゴロゴロしながら過ごしておりました。
ところで,前回の寝言ではイスラム国の件について妄想的なことを書いてしまいましたが,血を血で洗う戦闘を繰り返すことは負の連鎖を生むだけであり,今後においても機会ある毎にイスラム国と話し合いを行うことこそ,大国の指導者がとるべき道であると思ったからなのです。
恨みを浄化させるには,力ある者が寛大になる必要がある。
恨みを持ち続けているのを放置して,何時までも恨み通されたなら,今後もテロや誘拐事件が起こりうることが考えられるので,
双方が憎み合わず,
武力で解決することなく,
先ずはアメリカがイスラム国に対する空爆を中止し,
イスラム国においてもテロを止めて,
互いが話し合いのテーブルに着くべきであろう。
世界の各都市で第二・第三のテロ事件が発生する前に,知恵ある者の知恵をもって,人としての在るべき姿を示す時節でもあるようだ。
こんな戯言であり,一農夫の宗教観というより,調子外れな空論になってしまいましたが,
何れにせよ,神々はテロや戦争を望んでおらず,
世界の指導者(権力者・聖職者)たる者は神々の意思に従い,
テロを起こそうとする者がおれば理由(話)を聞いてやり,
その一方で,テロ事件が発生しても「目には目を歯には歯を」であるからと報復せず,
裁きにかけるとはテロに関わる一味を空爆で焼き尽くすことではない。
さりとて,いくら説得しても,自らの良心に従い武器を捨てて投降することはなかろうが,それでも辛抱強く神の言葉を伝えることこそ,真の指導者が取るべき道ではなかろうか。
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2015/4/30
神仏の御加護
4月も末日となった。
この4カ月においては,正月を過ぎてから小寒・大寒・立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨と,二十四節気を身近に感じながら日々を過ごし,菜の花・水仙・梅・椿・桜などの花が咲いているのを見ては,季節の移ろいを楽しんでいた毎日でもありました。
また,2月中旬から家の増築を始め4月上旬には小さな部屋が完成したのですが,室内を整えるべく障子を張りソファーを置いて,外部へは下駄置き石である紫雲石を配置するなどの作業を少しずつ進めていたのです。
ところで,南米チリでは4月22日にカルブコ火山が50年ぶりに噴火し,ネパールでは4月25日にマグニチュード7.8の地震が発生しており,地球の中から膿を出すように噴火した火山や,その反動を受けたかのようなネパールでの地震を関連付けてみると,人間の知らないところで地球規模の異変が起きているのではなかろうかと考えておりました。
地球は宇宙から見ると美しい星らしいが,その中身は壊れやすい星のようでもあり,文明社会になってからは大自然が暴発する原因を人間が作っている部分もあるようだ。
寝言はさておき,今日は石などに写経した後に神棚の中へ保管してある般若心経を久しぶりに明るいところへ出し,写経した当時のことを思い出しておりました。
この写経は,昭和63年の秋に始めたのですが,何かを祈願する時に写経をしていたところ,3年くらい続けていたものの仕事が忙しくなり,写経の筆を休めたままになっているのです。
写経を行っていた頃には,米粒にでも写経できると聞き,小生においては小石の表裏へメガネ(凸レンズ)を掛けずに写経し,木剣の鍔(自作)・木の節・笛・普通大の石への写経も行なっておりました。
思い起こせば,あの頃は困った時の神頼みのごとく,居住地域の神社仏閣を訪れたり,写経にて心を洗い,前向きに生きてゆこうと努力していたのは確かであります。
それが宗旨でも替えたように写経などから遠ざかってしまったのですが,毎朝には神社仏閣で頂いたお札を祀っている神前に向かい般若心経・大祓詞を唱え,昨年の8月末に母が亡くなってからは,その後に仏壇( 真言宗 )へ行き勤めをする毎日を送っているのです。
さて,こんな信仰で良いのかと思いながら日々を過ごしておるのてすが,神仏の御加護は本人の清らかな気持ちがあればこその恩恵であると考えており,今後も心を正しく保ちつつ,同じことの繰り返しにはなるが,誰ぞに神仏との向き合い方について教えてもらうまでは,今のまま続けてゆきたいと思っているところでもあるのです。