神仏と 向き合いながら 過ごす日々
   先ずは健康 欲は少なし

 梅雨晴れの一日でした。

 午前中は,収穫を終えた畑をトラクターで耕耘し,午後からは,野菜が育っている畝の中耕作業を行っていました。

 田植が終わったと,ホットしていたのですが,畑には幾らでも仕事はあり,今からは,雑草と戦いの日々になりそうなところ,トマト・ナス・キュウリ等の採れたてを食べられるのは有難く,水田の水の管理を行いながら,野菜を育ててゆきたいと思っているのです。

 本日の一首は,農作業の途中で,何となく閃いたところ,
 以前にも,一文ではありましたが、それらしき内容を残していたので,再掲してみたい。

2015/4/30
   神仏の御加護
 今日は石などに写経した後に神棚の中へ保管してある般若心経を久しぶりに明るいところへ出し,写経した当時のことを思い出しておりました。
 この写経は,昭和63年の秋に始めたのですが,何かを祈願する時に写経をしていたところ,3年くらい続けていたものの仕事が忙しくなり,写経の筆を休めたままになっているのです。
 写経を行っていた頃には,米粒にでも写経できると聞き,小生においては小石の表裏へメガネ(凸レンズ)を掛けずに写経し,木剣の鍔(自作)・木の節・笛・普通大の石への写経も行なっておりました。
 思い起こせば,あの頃は困った時の神頼みのごとく,居住地域の神社仏閣を訪れたり,写経にて心を洗い,前向きに生きてゆこうと努力していたのは確かであります。
 それが宗旨でも替えたように写経などから遠ざかってしまったのですが,毎朝には神社仏閣で頂いたお札を祀っている神前に向かい般若心経・大祓詞を唱え,昨年の8月末に母が亡くなってからは,その後に仏壇へ行き勤めをする毎日を送っているのです。
 さて,こんな信仰で良いのかと思いながら日々を過ごしておるのてすが,神仏の御加護は本人の清らかな気持ちがあればこその恩恵であると考えており,今後も心を正しく保ちつつ,同じことの繰り返しにはなるが,誰ぞに神仏との向き合い方について教えてもらうまでは,今のまま続けてゆきたいと思っているところでもあるのです。