夕暮れの 氷雨に濡れた 帰り路

 街の灯りで 心あたため

 

 数年前であったか、恋愛小説もどきを書いた際に、文章の一部に挿入していた一首です。

 この季節になると、何となく思い出す時があり、読み返してみると懐かしくて、雑鳥に加えてみたく、投稿してみます。

 

 人生には、様々な出会いがある。

 それが恋愛ともなれば、この世に男と女が存在する限り、永遠に繰り返されるであろう飽きることのないドラマであり、生命の営みを支えるために、神々から与えられた試練でもあるようだ。

 平成18年も、あと少しで終わろうとしている師走の夕暮れ時に、仕事を終え、氷雨に濡れながら最寄りの駅まで自転車を走らせている千春の姿を、偶然にも職場の窓から見かけた直は、その後姿を温かく見守ると同時に、孤独な自分を重ねていた。

 直の職場は、ある商社の支社が置かれている、雑居ビル内にあった。

 このビルには、業種の違った数社の事務所があり、直と千春は職場こそ違うが同じビル内で勤務しており、通勤時や仕事中に、通路や階段で時々顔を会わせる機会があった。

 直には妻子がおり、千春は25歳の独身である。

年の差からすれば、直の娘であってもおかしくないような存在であるのに、直は千春に対しひそかに好意を抱いていた。

しかしながら,今時はセクハラとかストーカーという言葉が定着し、うかつな言動をとれないことが、直の千春に対する思いを冷静にしていた。

 千春には、谷村という同世代と思われる独身男性の仕事仲間がおり、半年前には、この二人が最寄りの駅から職場までの10分くらいの道を、仲良く自転車で通勤する姿は誰が見ても微笑ましく、初夏の朝がいっそう爽やかに感じられ、直にしてもそんな二人をそっと見守っていた。

 ところが、男と女の仲は何時何処でどうなるのか、他人には全く見当もつかないことがあるらしい。

 ある頃から、千春と谷村が別々に出勤するようになり、やがて師走の夕暮れ時を迎えたのであるが、千春より職場を1~2分早く退社した谷村は自家用車で家路に向かい、千春が氷雨に濡れたことすら知らないことが、テレビのトレンディードラマでも見ているようであった。

 「ママどうだろう、こんな話は」

 直は、ある地方都市の町外れに店を構えているスナック御見通しの常連客であり、単身赴任をいいことに週に1~2回は御見通しへ通い暇をつぶしている、50歳代の半ばを過ぎたばかりの中年男である。

 「それこそ、テレビドラマを、再現しているみたいじゃないの」

 ママの桂子は、それらしき場面を想像しながら、直のグラスにウイスキーを注ぎ、5杯目の水割りを作っていた。

 「そうかもね。自分から言い切るのも、どうかなとは思うけど,彼女は美人でスタイルが良く、何より笑顔が素敵だし頭も良さそうだから、誰からも好かれるんですよ。男なら10人中8人は彼女に好感を持つんじゃないのかな」

 そう話しながらも、直自身が千春に対し現在でも少なからず好意を抱いているのを、ママに悟られまいと平静を装っていた。

 「そうなんだ。今夜の直は何だか詩人になってるみたい。ところで直は彼女の事をどう思っているの」

 ママが直と呼び捨てにしているのに、何かしら親しみが感じられた。

 「どう答えたらいいのかな。つまり雑居ビルに互いの職場があり、時々だけど顔を合わせた時に挨拶をする程度であって、今もその延長線上にいるだけですよ。でも、ちょっとしたことで少しだけ彼女を傷つけたことがあったのかな」

 「その話し方は意味ありみたいね。聞いてみたいわ」

 「たいした事じゃないんだけど、彼女が傷ついただけ自分も傷つきましたよ」

 「詳しいことは分からないけど、そんなことがあったんだ」

 「でも、今となっては互いが何もなかったように、普通に挨拶していますよ」

 「それが一番よ。片方が何時までもこだわっていたら、結局は互いに気まずくなるでしょうから」

 直は、何気なく話したつもりであったが,自身が一番に気きにかけている事だったので、それ以上は話したがらず、カウンターの花瓶の横にあるカラオケのマイクを自分の水割りのグラスの横へ置き、テレビ画面に写るカラオケランキングに心を移していた。

 直にすれば、千春を傷つけたとの認識は薄く、意志の疎通に失敗したことは確かにあったかも知れないところ、それ以上は誤解を招く態度を見せたことも無く、一時期に恋心を抱いていたのは事実であるが、それは、どんなに考えても結果的に千春に迷惑を掛けることになるから、人生の先輩として、千春の幸せを心から祈ってあげることこそ、千春に対する真心であると思えるようになっていたのである。

 そんな直が、師走の夕暮れ時に、氷雨に濡れながら一人で家路に向かう千春の姿を偶然に見かけた折に詠んだ一首の短歌があった。

  夕暮れの 氷雨に濡れた 帰り路

 街の灯りで 心あたため

 どこかで聞いたことのある文句を、並べただけのようであるが、直にとっては千春への賛美のつもりであった。

そして、千春のことを、心のどこかで想っているのかなと、直は、己の未熟さを恥じているようでもあった。

 

 第一章の始まりは、こんな一文でありました。