2017/9/2
命を大切に
今日も一日が無事に終了した。
終日を畑にて過ごしていた一日であり,午前中は草刈機にて除草を行い,午後からは乾ききった畑に水を引いておりました。
9月も2日目の夕となった。
学校では長い夏休みが終わり,昨日から2学期がスタートしている。
この2学期が始まる前後に,若者の自殺事故が多発するとテレビのニュースで報じられていたが,自殺は許されない行為であり,一農夫なりに閃いた内容を,生きることの大切さとして綴っていたので再掲してみたい。
生きよう
この頃の報道に接していると,殺人事件や自殺したとのニュースが以前より多く聞こえてくる。
人を殺せば刑法の殺人罪が適用され,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処せられるのを覚悟の上で犯行に及んでいるとしても,何故に殺人を犯してしまったのか,犯行に及んだ者の心境は複雑であるようだ。
それはさておき昔からの言い伝えに,家族の者が人を殺したり自殺すると家系が途絶えると聞くが,途絶えないにしても,殺せば本人の人生はなく,自殺なら尚更であろう。
何れにせよ,人の命がこの世から消えてしまうのは無常の一言に尽きる。
ところで,殺人事件の現場では,これほどまでに惨い仕打ちの必要があったのだろうかと,人間の愚かさや醜さを思い知らされる時もあるらしいが,殺さずとも解決する道は残っていたのではなかろうか。
殺すな,自殺するな,命を大切にしよう。
自殺にしても,わざわざ自ら死を選らばなくても生まれたからには何時かは死んでゆくのである。
腹を立てて自殺するなかれ。
思いとどまって家族や友人のためにも生きてみよう。
死ねば全てが止まってしまう。
苦しみの多い人生も楽しいものですよ。
それでも神々が苦しみを与えるなら,身も心もボロボロになりながらも,なお生きてゆくのが人生なのでしょう。
いじめ問題について
いじめが大きな社会問題となっている。
大人であれば,職場における上司からのパワハラで裁判にまで発展するケースもあるが,子供のいじめについては,事件処理がなければ当事者(含両親等)と学校・教育委員会で処理を済ませ,表面に出ないことが殆んどのようである。
社会生活をしておれば,他人より優越していることで満足する時もあるが,それは一時的なことであり,長い人生には山もあり谷もあるのです。
ところで,いじめ問題は昔からあり今に始まったものではないが,これを減少させるには,教育現場での道徳及び躾け教育を徹底させ,広く社会でも子供を孤立させないよう努力する必要がある。
小生の知る,ある地域の子供たちは,大人との交流が多いようです。
大人と一緒になって遊ぶのではないが,日々の生活の中において,挨拶を第一とし,子供も成人も老人も皆が誰とでも顔を合わせると「おはよう・学校へ行くかね・こんにちは・学校から帰りよるかね」と地域の人が声をかけ合っている。
これでは非行に走る隙もなく,他人をいじめてやろうとの気持ちも起こらないと思ったことがありました。
さて,学校で如何なる躾け教育をするのかと問われても,一農夫には提言する文言すら浮かばないが,小生なりに生活信条としているのは,
どんな時にも腹を立てず・人を憎まず・人の悪口を言わないことであり,
子供たちには物心ついた頃から,泥棒はするな・人に暴力を振るうな・女子を大切にしなさいと指導してきたのです。
しかしながら,実際には腹も立つし,時々には昔のことを思い出して,憎まないまでも因果応報・輪廻転生に任せておこう心を歪める夕べもあり,
そんな時には,生活信条を思い出すことで我に返り,今の自分に必要ないとの理解を深めつつ平静を保つようにしているのです。
さてさて,子供のいじめについては,教育者なら直ぐに気が付くのではなかろうか。
気づきながら放置するのは,先生も人の子であり,いじめを知っていても関心を示さず,或いは注意しようとする気持ちに迷いが生じたり,何とかせねばと思いつつも忙しさにかまけて忘れてしまう時もあるからなのでしょう。
教育者は聖職者としての要素も持ち合わせている必要がある。
いじめが社会問題化しつつある今だからこそ,いじめ問題について本気で考えてみてはどうだろう。
追記
教育関係者には手厳しいことを言ってしまったが,実際のところ,この頃の先生方は優し過ぎるから,生徒にバカにされている一面もあるようです。
さて机上での学問を幾ら探求しても,より素晴らしい回答を得る事は困難かも知れません。
そんな訳ではないが,いっそ刑務所内の現場で,期間を定めて研修を受けてみてはどうでしょうか。
テレビの報道番組を見ていて,担当さんが毅然と働く姿に感動したことがあり,あの担当さんの横で,人を扱う方法について勉強すれば,今までとは違った目で生徒を指導出来るようになるのかも知れないと想像を膨らませたことがありました。
また研修中には護身術を習えるなら習得し,何かの役に立てて欲しいとも思います。
その他,国と県という組織の違いはあるが,子供たちの健全な育成に国家が関与してゆくことで,いじめ問題が解決してゆくなら,若い有能な学校の先生には,少年院の教官との人事交流を推し進めるべきであると考えるものであり,結果として日本国からいじめが減少するなら,これも一方策であると思料されるところであります。
(2012/9/18)
過去より今が大切
ある老女(80歳)が50年以上も前に,親戚や近所の人から,いじめを受けた件について,現在でも時々ではあるが家族に対し昨日の出来事のように話すので,
ある日のこと,家族の者が「何時までも昔のことをしつこく言わない方が良いよ」と窘めたら,新聞紙を丸めてテーブルを叩いたり,大声を出して「皆にバカにされてきた」とヒステリックになっていたとの話を聞いたことがあります。
他にも被害妄想のあった老女を落ち着かせるために,家族の一人が老女に対し,
「人の一生が百年とすれば,婆さんの人生は残り何年になるんやろ」
「恨みという気持ちは誰にでもあり,時には昔の辛かった日々を思い出すかも知れないが,過去の事実を変えることは不可能なんよ」
「そんな事ばかり考えながら生きてゆくのは疲れるやろ」「それより,残された人生を気楽に過ごしたほうが良いよ」と説得したら,少しは理解出来たみたいで,「もう言いません」と心に誓ったようでした。
しかしながら,その後の5分も過ぎた頃に,家の庭先で老女から「もう言わんけん」との言葉が発せられた時に,それすら言うたらダメであると指導したら,分かったとの一言があり,老女から恨み節が消えたとの話でした。
人それぞれであるが,人生百年なら,過ぎ去った過去はハードディスクの深層ディレクトリへでも移動保管し,今を如何に生きるべきかではなかろうか。
(2012/12/27)
その一言で救われることがある
昨晩のこと,NHKのテレビ番組を見ていたら,子供の自殺について放送されていた。
内容として,子供の自殺原因は様々であるが,死を選ぶほど深刻な理由ではないと思われるケースがほとんどであるところ,現場教師の行き過ぎた指導が原因だと考えられる自殺について報じられておりました。
学校側は生徒の死について,教師の指導に落ち度はなかったと結論付けているが,生徒の家族と学校側との意見に食い違いがある旨の説明がなされており,警察の捜査で疑わしいと判断され,裁判で指導に行き過ぎがあった結果での自殺だと認定されても,学校が作成した調査結果を修正せず,現在に至っているケースもあると補足していた。
一方で,ある教師の反省点として,高校生がタバコ事犯で停学処分を受けた翌日に自殺した事案では,処分を下した先生方の部屋を生徒が退室する際に,何らかの言葉を掛けてやればよかったとの気持ちを述べていたが,人はその一言で救われることがあり,教育の現場で生徒を指導する時には,一方的に叱るだけでなく,心の中に逃げ場を確保してやるくらいの寛容さというのか指導方法が必要かと思われました。
その他として,生徒の自殺について学校側は逃げ腰にならず,教師に原因があるなら潔く認め,教育現場においては折に触れ生きることの大切さを子供たちに教えてゆけば,教師の指導不足はもとより生徒同士のいじめによる自殺が減少するのではないかと思料されたところでもあります。
生き抜いてこそ人生よ
社会では,殺人事件や自殺等の暗いニュースが多く,世の中が病んでいる様子が一農夫にも伝わってくる。
そんな訳ではないが,この世に生を受けておきながら何故に自殺するのかと考えておりました。
人間なら死にたいと思う時もあろうが,死んだら全てが終わりなのである。
ところで,自殺をするためにビルの屋上へ行ったり,列車が通る線路の前に立ち,或いは建造物などに掛けた紐の下で覚悟を決めた時点で,死神に導かれた状態となっており,そこから正気に戻るのは困難かも知れぬところ,
そんな時でも,我に返らせるための教えや言葉があれば,自殺者が減るのではなかろうかと考えたことがありました。
キリスト教では,自殺は神の意思に反するとの理由で,いかなる事情があろうとも自殺してはならないと戒めているが,人の命や尊厳について考えれば,自殺は罪であり悪でもあるので,学校や職場で命の大切さについて教えるだけでなく,広く社会全体のテーマとして取り上げて,自殺に追い込まれない社会の実現を図ってはみてはどうだろう。
さて,私ごとになりますが,小学校の低学年であった頃,母親によく叱られて,夜間に家の外で1時間も立たされたり,あるいは昼間でも真っ暗な物置小屋に入れられた記憶があり,その時には子供なりに死について考えたことがありました。
しかしながら,自殺する方法を知らなかったので死なずに済んだが,物置小屋では死んだら何もかもなくなって暗闇の世界に入り,そこから抜け出すのは不可能であるとの結論に達していたのです。
死んで終わらせるより,生き抜いてこそ人生よ。
(2015/7/27)
いじめにも負けず
テレビでは岩手中2自殺について報道されており,中学校はいじめが自殺の一因であったことを認めたようである。
いじめ問題については,小生なりに思い付いたことを書き残しており,生きることの大切さについて述べているが,いじめられても自殺はするなと忠告したい。
いじめを受けたくらいで自殺していたのでは,命がいくつあっても足りないのである。
自殺したいと思う切ない気持ちが沸き起こったなら,その気持ちは生きている証拠なのであり,誰にでもあることなのです。
生きておれば,あの時に死ななくて良かったと思う日が必ず訪れるので,自殺せずに,苦しくても生きるのみである。
余談になるが,いじめられて悔しいなら,生き抜いて,いじめた者を見返してやれば良い。
いじめられても,大人になれば社会人として一人前に生活している人は多いのである。
さて,大人の自殺はどうなんだろう。
突然に死ねば,隠していた秘密が晒されることもあり,人生の風雪に耐え忍びながら,過去の過ちを水に流しつつ,生きてゆくことが肝心である。
(2016/8/31)
生きる義務
社会では事件・事故等が相変わらず発生しており,8月の下旬においては,銃を使用した凶悪事件や,青森県で女子中学生が自殺したことは記憶に新しいが,子供の自殺については以前に何回も書き記しているものの,何とかならないかと再三になるけれど考えてみました。
人には生きる義務があり,自殺は如何なる理由があろうとも,許されるべき行為ではなく罪でもあるのです。
人生には,平坦な道だけでなく,山もあれば谷もあり,よく考えてみれば脇道も多いので,苦しくても自殺することだけは避けて,休み休み歩むか,脇道から遠回りして目的地へ辿り着く方法もあります。
命は自分だけの命ではないのであり,自殺によりイジメから逃れることができても,両親や兄弟姉妹は自殺した本人以上に苦しむのです。
また,自殺すると,深い闇の中に入ってしまった霊魂は神様でも救い出すことは困難となり,現世で生きていた頃より苦しい日々を送ることになります。
そんな理由で,自殺だけは絶対に行なわず,苦しくても生きてゆくのみなのです。
さて,死にたいと苦しんでいるのは自分だけではなく,多くの若者は死にたいとの気持ちが深まっても思いとどまり生きる道を選んでいるので,どんな事があっても自殺はせず,生き抜いて,自身に降り掛かかった災難と戦ってこそ人生といえるのではなかろうか。
こんな一文が残されておりましたが,
身も心もボロボロになりながらも,それでも生きてゆくのが人生であり,
どん底の人生が続いていても,そこから這い上がった人生もある。
死んで終わらせるより,生き抜いてこそ人生といえるのではなかろうか。