2015/11/11
ご朱印用白衣
午前中は小春日和の穏やかな天気であったのに,午後からは東方向から吹いてくる風が冷たい一日になっていた。
寝言を更新しておこうと,日付と寝言のナンバー(411)を入力したら,11が3回も並んでいるのに気が付きました。
朝のうちに,亡き母親が生前に保管していた衣類を処分し,昼からは,畑へ出掛け晩生タマネギの苗を植えつけていた。
処分した衣類は45ℓ×23袋(3日間)でしたが,父親が亡くなった際には母において父の衣類は全て処分しており,自分も同じ立場になれば衣類等を処分してもらっても構わないと思いながらの作業でもありました。
処分といっても,右から左へと捨てた訳ではなく,一品一品を確認しながらの作業であり,必要かと思われた品は大型の衣装ケース(3個)へ収納したのです。
また,作業中には父親が四国巡礼の際に朱印を頂いた,ご朱印用白衣を押入れの中から発見することができて,何かの巡り合わせのように感じておりました。
ご朱印用白衣は,朱印を頂いた本人が旅立つ折に着用してゆく衣類であるらしいが,本人から生前に白衣の存在を知らされておらず,亡き父の葬儀の際には納経帳を棺に納めたので,ご朱印用白衣は仏壇下台の最下段の引出にへ保管することにしたのです。
生前の父親は,四国八十八箇所を数十回お参りしており,今年の正月には巡礼の際に完成させた掛け軸2対を座敷の鴨居に掛けて当時を偲んでおりましたが,ご朱印用白衣については偶然に発見した遺品となったので,小生において管理しておこうと思った次第でもあります。
ところで,我が家の裏庭では柿の落ち葉が日ごとに増えており,1ヶ月も前から朝になると落ち葉拾いを続けているが,落ち葉の積もった光景も趣きがあると思われるところ,単純な作業ではあるけれど,掃除をした後の庭を眺めていると自身の気持ちも清らかになったような気がしておるのです。
また,落ち葉の始まった頃には,庭に集めた葉の形が猫が丸まっているようにも見えたのですが,最近では海亀の甲羅のようでもあり,この作業が終われば本格的な冬が訪れるものと思われました。
さて,畑では初秋に蒔いた野菜の種から芽が出て,移植した苗と共にすくすくと育っており,今日は晩生タマネギ苗を移植したので,来年の2月下旬ころにジャガイモの種芋を植え付けるまでの間は,土との戦いが一休みとなる。
何やかんやで本年も忙しい月日でしたが,残りの19日と1ヶ月を有意義に過ごしたいと思っている。
2016/3/2
神仏に感謝
3月に入り,二日目の夕となった。
ここ数日は,午前中に各部屋の片付けを行い,午後からは畑にて八朔・せとかの苗木を移植したりジャガイモの種芋を植え付ける等の仕事を続けていたところ,
本日においては,午前中に砥部町の七折れへ梅の花を見に出掛け,午後からはジャガイモを植えた畝にマルチを張る作業を行っていました。
ところで,中途退職ではあるが,第二の人生なので日々をのんびり過ごせば良いものの,何ぞに向き合っていないと損をするように思い,気が付いた事柄を携帯にメモしつつ,ひとつずつ片付けておるのです。
今後の予定は,野菜に液肥を施肥・イチゴ苗を移植・柿やビワの木の根元に鶏糞を投入・ニンニクが育っている畝の除草・カボスの木を垂直にする・水田の予定地を耕耘・セメントの畦を補修・自宅倉庫一階の掃除・水道管を保温材で覆う・二階の東側にセメントを注入(雨水が雨水管の方向へ流れやすくするため)・書類を廃棄する等の予定があり,1日に1項目ずつでも終了させたいと思っているところです。
そんなことで,貧乏性なのは自分でも分かっているが,退職以来7年8ヶ月間もの長きにわたり再就職せずに晴耕雨読の日々を過ごせたことは神仏のおかげであると感謝する毎日でもあるのです。
さてさて,一昨日は温泉利楽の野天風呂に浸かりつつ,偶然に会った近所の幼なじみ(一年先輩)と,互いに子供のことや家を改築したこと等について話していたところ,竹馬の友であった先輩は愛光高校の先生を本年度末で退職(再雇用)し,4月からは別の高校で教鞭をとると話されていたが,清らかで混じり気のない教育者としての信念がオーラとして伝わってきて,小生の疲れきった魂が浄化されたようでもありました。
2017/1/29
物思いにふける
今日も淡々と過ごしていた一日でした。
午前中は,家の中でのんびりした時間を過ごし,午後からは,久しぶりに畑の倉庫二階へ上がり物思いにふけっていた。
倉庫二階では,炬燵の中で足を伸ばし,我が人生を振り返ったり世の中のことを考えていたら,寝言のネタになりそうであると思い,そこら辺にあった紙切れに鉛筆で下書きをしておりました。
人の一生は短くも儚い,はぐれ雲のようである。
この人生でさえも,事件・事故に巻き込まれて命を落としたり,病気で思うままに生きられずに旅立つ人もある。
人の世とは,何と無常な世界なのだろう。
また,平和に暮らしていても,テロや戦争で住む家を追われ,心身に傷を負ってさまよい歩く人々の多いことは,人類の歴史が始まって以来のことである。
この末法という時代を,誰が救えるのか未だに不明である。
しかしながら,必ずや救世の主は現れるので,希望を捨てずに待つだけである。
それが500年先であろうが,1000年先であろうが,人類の続く限りにおいては必ずや救世主に遭遇すると思われるので,その時には救世主の言葉に従い,人類が力を合わせて生き抜く道を選ぶことになるのであろう。
さてさて,我なぞは天からの迎えが何時あっても不思議でない年齢になろうとしているが,生かされていることに感謝しつつ日々を送るだけである。
2017/3/1
久しぶりの手紙
月日の過ぎるのは早いもので,正月気分が抜けないままに過ごしていたら,気が付けば3月になっていた。
本日においては,終日を畑にて過ごし,午前中にトラクターで雑草の生えた土を耕して,午後からは耕運機にて野菜の種を蒔くための畝を作る作業を行っていました。
ところで,昨年の11月中旬頃から始めた家系図(先祖を祀る)の編集が終了し,墓の配置図も記載した小冊子が完成したので寺にも届けておりました。
しかしながら,後に訂正すべき箇所を発見し,昨日においては修正の上,手紙を添えて寺へ持参したのですが,こんなこともあったと,その一文を残しておきたく以下へ転記してみたいと思います。
拝啓
日増しに暖かくなり,春の兆しが見え隠れする頃となりました。
この陽気に誘われたのか,我が家にも数羽の鶯が訪れて,裏庭のまだ若芽の出ない柿の枝の周辺を飛び交っており,その光景を眺めていたら,本格的な春がすぐそこまで来ているのが感じられました。
昨日は,突然にお伺いし,「先祖を祀る」との小冊子をお受け取り下さいまして有難うございました。
昨年の11月中旬頃から,ご先祖様のことが気にかかるようになり,家系について書いたノートを何回も見ていたら,改めて書き残しておきたくなり,小冊子を作ることになったのです。
内容はさておき,書き残せる人が記録しておくのは大切かと思われ,素人なりに編集と製本をしたものの,一部に誤った記載があり訂正を行なったので,改めて修正した分をお届けします。
何事も,十分に確認してから次へ進むべきであるところ,せっかちで気持ちが先走ってしまい,お恥ずかしい次第でもあります。
なお,小冊子を明治の初め頃に親戚付き合いしていた○○町の○○さんにも届けたら,現在の宗旨は創価学会であるが,真言宗を信仰していた頃には○○寺さんの檀家としてお世話になり,その時分に先祖の名前を知りたくて,○○寺さんに教えて頂いたという系図を見せていただくことが出来ました。
また,その他の元親族についても日蓮宗の信者であるところ,我が一族のみが唯一真言宗を信仰しており,これも何かのご縁であると信じ,今後もお大師様からのご加護が得られるよう日々精進してゆきたいと思っています。
三寒四温の時節柄お身体をご自愛下さいませ。
敬具
平成29年2月28日
○○寺 和尚様
こんな手紙を添えておりましたが,自身の未熟さを曝け出した一幕でもありました。
201712/16
神仏と共に歩めた年月に感謝
寒い一日でした。
この寒さで,本日においても畑仕事を行なうことなく,日が暮れてしまった。
午前中に灯油を購入のためガソリンスタンドへ出掛け,午後からは久しぶりに倉庫の2階へ上がり,部屋の中を炬燵が使えるように模様替えし,炬燵の中で足を組み,小窓から見える外の景色を鑑賞しながら,物思いに耽っておりました。
寝言を書き始めて,あと少しで満6年になるが,寝言を500回まで書いてみたいと思いつつも,なかなかペンが進まず,時には回想し,四季折々の自然界の様子でさえも,同じ空間からの眺めでは新しい発見が少なくて,以前に表現した一文と重なりそうで,情景を文字で表すことが出来ないのです。
ところで,職場を早期退職して9年と5月が過ぎたのですが,辞めると決心するのに大きなエネルギーを使った分だけ,後の人生はゆったりとした年月が流れてきたようでもあります。
また,職場を去るか去らないかについては,定年まであと数年だったので,石にしがみついてでも退職の日を迎えたかったところ,人間関係が嫌になり辞めることになったのです。
しかしながら,退職後は他の職に就くこともなく,晴耕雨読の日々を送れたことは有りがたく,神仏と共に歩めた年月に感謝しているところであります。
さて,昔のことは心の片隅に封印し,今を正直に生きるのみである。
天に向かって,唾を吐くようなことをしなければ,罰が当たることはない。
人生は捨てたもんじゃない。
自分で納得のいく,余生を過ごしてみたいと思っている。
何処かで聞いたような言葉であるが,こんなことも考えながらの一日でもありました。
今夜は,純米にごり酒・雪のマドンナを飲みながらの寝言になった。
ほろ酔い加減になっている。