(2013/1/18)

   生き抜いてこそ人生よ

 社会では,殺人事件や自殺等の暗いニュースが多く,世の中が病んでいる様子が一農夫にも伝わってくる。

 そんな訳ではないが,この世に生を受けておきながら何故に自殺するのかと考えておりました。

 人間なら死にたいと思う時もあろうが,死んだら全てが終わりなのである。

 ところで,自殺をするためにビルの屋上へ行ったり,列車が通る線路の前に立ち,或いは建造物などに掛けた紐の下で覚悟を決めた時点で,死神に導かれた状態となっており,そこから正気に戻るのは困難かも知れぬところ,

 そんな時でも,我に返らせるための教えや言葉があれば,自殺者が減るのではなかろうかと考えたことがありました。

 キリスト教では,自殺は神の意思に反するとの理由で,いかなる事情があろうとも自殺してはならないと戒めているが,人の命や尊厳について考えれば,自殺は罪であり悪でもあるので,学校や職場で命の大切さについて教えるだけでなく,広く社会全体のテーマとして取り上げて,自殺に追い込まれない社会の実現を図ってはみてはどうだろう。

 さて,私ごとになりますが,小学校の低学年であった頃,母親によく叱られて,夜間に家の外で1時間も立たされたり,あるいは昼間でも真っ暗な物置小屋に入れられた記憶があり,その時には子供なりに死について考えたことがありました。

 しかしながら,自殺する方法を知らなかったので死なずに済んだが,物置小屋では死んだら何もかもなくなって暗闇の世界に入り,そこから抜け出すのは不可能であるとの結論に達していたのです。

 死んで終わらせるより,生き抜いてこそ人生よ。

 

 (2015/7/27)

いじめにも負けず

 テレビでは岩手中2自殺について報道されており,中学校はいじめが自殺の一因であったことを認めたようである。

 いじめ問題については,小生なりに思い付いたことを書き残しており,生きることの大切さについて述べているが,いじめられても自殺はするなと忠告したい。

 いじめを受けたくらいで自殺していたのでは,命がいくつあっても足りないのである。

自殺したいと思う切ない気持ちが沸き起こったなら,その気持ちは生きている証拠なのであり,誰にでもあることなのです。

生きておれば,あの時に死ななくて良かったと思う日が必ず訪れるので,自殺せずに,苦しくても生きるのみである。

 余談になるが,いじめられて悔しいなら,生き抜いて,いじめた者を見返してやれば良い。

いじめられても,大人になれば社会人として一人前に生活している人は多いのである。

 さて,大人の自殺はどうなんだろう。

 突然に死ねば,隠していた秘密が晒されることもあり,人生の風雪に耐え忍びながら,過去の過ちを水に流しつつ,生きてゆくことが肝心である。

 

(2016/8/31)

生きる義務

 社会では事件・事故等が相変わらず発生しており,8月の下旬においては,台風が影響した災害や銃を使用した凶悪事件とか青森県での女子中学生の自殺が気になっているが,子供の自殺については以前に何回も書き記しているものの何とかならないかと再三になるけれど考えてみました。

 人には生きる義務があり,自殺は如何なる理由があろうとも,許されるべき行為ではなく罪でもあるのです。

 人生には,平坦な道だけでなく,山もあれば谷もあり,よく考えてみれば脇道も多いので,苦しくても自殺することだけは避けて,休み休み歩むか,脇道から遠回りして目的地へ辿り着く方法もあります。

 命は自分だけの命ではないのであり,自殺によりイジメから逃れることができても,両親や兄弟姉妹は自殺した本人以上に苦しむのです。

 また,自殺すると,深い闇の中に入ってしまった霊魂は神様でも救い出すことは困難となり,現世で生きていた頃より苦しい日々を送ることになります。

 そんな理由で,自殺だけは絶対に行なわず,苦しくても生きてゆくのみなのです。

 さて,死にたいと苦しんでいるのは自分だけではなく,多くの若者は死にたいとの気持ちが深まっても思いとどまり生きる道を選んでいるので,どんな事があっても自殺はせず,生き抜いて,自身に降り掛かかった災難と戦ってこそ人生といえるのではなかろうか。

 

 こんな寝言が残されておりましたが,

身も心もボロボロになりながらも,なお生き続けるのが人生であり,

どん底の人生が続いていても,そこから這い上がった人生もある。

死んで終わらせるより,生き抜いてこそ人生といえるのではなかろうか。