2017/2/22
中国でも受験戦争か
天気予報のとおり,午前中は薄日が射していたが,その後は厚い曇に覆われた空となり,午後3時頃から小雨になった一日でした。
最近は,天気予報の当たる確立が高くなっており,インターネットでも日本気象協会が提供している雨雲の動きの画面を見ることが出来るので,外出時の参考にするだけでなく,農作業の予定を組むのに役立てております。
本日は,午前中に食料品の買い物に出掛け,午後からは家系図作成のため墓へ行き,それぞれ墓石に明和~文久と書いてあるのを再確認しておりました。
ところで,今朝のことテレビでニュース番組を見ていたら,中国の若者が東京大学・京都大学を受験のため予備校で勉強している様子が映し出されていた。
そこには,中国の受験事情があると説明していたが,予備校生においては日本が中国を占領したばかりか南京大虐殺まで引き起こした憎き敵国であるとの様子は見受けられず,日本の最高学部へ入学したいとの情熱が感じられました。
しかしながら,中国には矛盾という言葉があるのだろうか。
中国においては,事ある毎に日本人を犬畜生のように忌み嫌い,地球上から日本国が消えて欲しいとさえ感じさせる言動をしており,その日本国の大学を中国人が何故に受験するのか不思議でならない。
それはさておき,中国の若者が日本国の最高学部で修学するのなら,共産国家にはない言論の自由と人としての尊厳が保障された社会についても学び,日本国で生活した体験を以って,良識ある人間に育つなら大歓迎である。
さてさて,夕方にテレビを見ていたら,韓国の日本大使館前では,島根県が条例で定めた竹島の日の式典を松江市内で開いたことに反対し,反日感情をあらわにしたデモを行なっている様子が映し出されていた。
中国人さん韓国人さん,金欲しいあるか。国土増やしたいあるか。
孔子・孟子・儒学者さんが笑いよらい。
世の中を生き抜くためには,人としての心を持つことが肝心であると。
2017/5/20
畑での寝言
そよ風が心地よく感じられた,五月晴れの一日でした。
午前中は,農協にて稲作に使う元肥・追肥を購入し,午後からは,乾ききった畑に水を引く作業を行っていた。
農家では,そろそろ田植えの準備を始める頃となり,野菜を植えている畑を水田へ転用する農地にあっては,ジャガイモ・タマネギ・ニンニク・マメ類・葉物野菜・イチゴ・ニンジン・ゴボウ等を収穫した後に,稲作のため耕耘などを行うので,田植えを終えるまでは何かと忙しい毎日になりますが,
我が家では,昨年から食べる分だけの稲を栽培(12アール)しているので,野菜畑には収穫を遅らせた野菜たちが穫り入れの日を待っておるのです。
ところで,先日のことスイカ・メロン・カボチャの若芽が伸びた所へ麦藁を敷いてやろうと思い,隣の畑でコンバインにて刈り取ったばかりの麦藁を束にしていた際に,麦藁の切れ端が右の鼻の中に刺さり出血したのですが,この時には事故は何処にでも潜んでおり,人間の行動範囲内に仕組まれた罠であり魔でもあると感じたものでした。
そして,人生は一寸先が闇であるとも聞くにつけ,全ての行動に石橋を叩いて渡る必要はないものの,普段と変わった仕事を行なう際には,何気なく事を進めずに細心の注意を払いながら作業を行ないたいと再確認したところでもありました。
また,本日においては,畑にて以前の寝言に書いた『人生とは己の魂と向き合いながら日々を過ごすことにあり,その魂が曇った時には,神々の御力により浄化していただき,あるいは己の研鑽と努力で回復させながら前向きに生きてゆくのみである』との自身の言葉を思い出しており,
この時に何となく閃いたのが『信仰とは,神仏と向き合いながら己の魂を磨き清めることであり,戒律を守りつつ日々を過ごすことにある』・『人間とは,悩み多き生き物であるが,悩みを克服する力も持ち合わせている』との寝言でした。
そんなことで,今日も無事に一日を過ごせたのですが,嫁が歯医者からの帰りに買ったサザエを刺身とボイルにして,竹の子とジャガイモとぶんどう豆の煮物といっしょに食卓テーブルの上に置いたので,これを肴に麦焼酎かのかの水割り(中ジョッキ)を飲みながらの一文になりました。
2017/6/7
雑念を取り除く
久しぶりの雨で田畑が潤い,畑においては暑さで弱っていたナス・トマト・スイカ等の夏野菜が元気を取り戻し,水田では移植後の稚苗が活着を始めているようでもありました。
昨日の田植えは,午前8時から11時までの間に,12アールの水田へ歩行型二条田植機にて植え付作業を行なったのですが,年毎に体力の低下を感じており,本年度においても気力で乗り切った3時間になったのです。
ところで,農作業をしていると何かと雑念が脳裏をかけめぐり,妙な妄想をする時もあるのですが,昨日の田植えでは,ひたすらに心の中で般若心経を唱えておりました。
それも,雑念が起きると縦方向へ真っすぐに苗を植えつけられないため,田植機が植えつけるカチカチという音に合わせての般若心経であり,水田と田植機と自身の気持ちが一体化しての田植えでもあったのです。
また,田植機での作業を済ませ,水田の周囲へ残りの稚苗を手で植えたが,しんどい作業ではあったけれど1時間ほどかけて終わらせることが出来ました。
そんなことで,今年の田植えも無事に終了したのですが,稚苗の残りを移植した際には,何故だか悟りについて考えるに至り,一農夫なりに閃いたのは,
悟りとは,はからいの心を捨て去りて,なお心が常に安定している状態である。
悟りの境地を保つためには,本人の身の丈に合った,修業を行うことが肝心となる。
こんな閃きがあったのですが,以前の寝言にもそれらしき内容を書き残していたので,再掲してみたい。
『何かが気にかかり,頭から離れない時には,人それぞれの対処方があるようですが,気になっているエネルギーより大きなエネルギーで包み込んだり,無の精神と入れ替えるとか,あるいは全然関係ない別の気持ちへと観念を移せば心が落ち着くのでしょうが簡単には出来ない技のようです。
酒を飲む人は,その切り替えが鈍感になっている感が拭えず,自己コントロールが出来ない人で酒飲みの人は,断酒から始めると効果があるのでしょう。
ところで,知人から聞いた話ですが,ある寺の住職が更生保護の仕事をしていて,しばらくの間,関係者を寺の離れへ住まわせていた頃に,住職より心が澄んでいた本人の立ち振る舞いや心の奥深くにある何かを同住職が盗みたいと思っているが簡単には盗めないとの話を知人にしたそうです。
その話を聞いた後に,小生なりに,本人は托鉢をしている心境であり,他人には絶対に話せない秘密を持っているからこそ平然として居られるのかもと思ったが,
人それぞれなので,何より普段から毅然とした態度で諸事に接し,なお平然とした気持ちで生きてゆく習慣を身につけることが大切であると改めて己を戒めていた。
さて,テレビの司会者やコメンテーターでも,辛抱しきれない時には腕時計や指輪に何気なく気持ちを移しているようであるが,それが分かるだけに,誰でも同じなのかと思った時もある。
何れにしても,人は誰でもはからいの心を生じさせる性質を持ち合わせているので,はからいの心が生じないようにするためには,何かをもって魂を磨くしかないようです』
こんな寝言を記録しておりましたが,
改めて,
悟りとは,はからいの心を捨て去りて,なお心が常に安定している状態である。
悟りの境地を保つためには,本人の身の丈にあった修業を行うことが肝心となる。
これも一つの悟りであると感じておるところです。
さてさて,一農夫には雑草バスターズは雇えまいが,心の安定を図るために各種アルコールの入った煩悩バスターズを飲んで,今日一日に溜まった雑念を取り除こうとしているのです。
2017/8/6
自己暗示
台風の影響かと思われる雨が,降ったり止んだりの一日でした。
今回の台風5号は速度が遅く,四国へは明日の午前中に接近し,その後は近畿地方へ移動するとの予報なので,
本日は,午後から自家用車を車庫へ入れたり,暴風で庭の物が吹き飛ばされることのないようにすると共に,家の戸締りをしておりました。
8月も七夕の前日となり,水田では出穂が始まる頃となっている。
特段の寝言ネタは無いものの,最近は自己暗示について考える時があり,何となく思い出しては実行していることとして,余計な考えが芽生えた際には,『思わない・思わない・思わない』と三回区切りで納得のいくまで(思わなくなるまで)念じておるのですが,実際に思わなくなり気持ちが楽になるのは不思議でもあるのです。
また,妙な妄想があった際には,早めに気持ちを切り替えることで,心の中に放たれた観念を残さないようにするのも一方策であるところ,単に『思わない』と念じることで息苦しい状況から打開できることもあり,何かの参考になればと思い書き記してみました。
思わないについては,雑念がない・記憶にないと自由に変形させるのも良いが,金がない・何もない・運がないと念じるのは益々に落ち込むので禁忌であるようだ。
寝言のついでに,以前に書き残しておいた,妄想と強迫観念との一文を転記してみたい。
『昨日の昼食後に,何時ものように爪楊枝を使って,歯の手入れをしていたら,アマルガムを充填していた箇所が突然に外れてしまい,早速に行きつけの歯医者さんに電話したところ,昨日は昼から休診のようで連絡がつかず,結局のところ今朝になり受診の予約をして通院治療を済ませた。
3年ぶりの通院でした。
前回通院した時には,先生が治療する指が気にかかり困ったが,今回は何も考える事なく,目をつむっている時はただ暗く,目を開けている時は診療器具が見えるだけであった。
妄想と強迫観念の概念については専門家に任せるとして,
人は誰でも妄想し,雑念の世界に入り浸る時もあるが,妄想から離れる時には自然に次の思考へと移ってゆく。
しかしながら時として払い除けることの出来ぬ強迫観念として脳裏にこびり付く時もある。
ところで,テレビのワイドショーを見ていたら,コメンテーターの先生方も普通の人間だなと思わせる場面があり,例えば堂々と話をされていても,何か雑念でも入ったのか癖なのか,突然に腕時計を見せる仕草をし,反対に高級腕時計を見せながら安心してコメントをしていたのに急に腕時計を袖口の中へ隠すのを見た瞬間がありました。
以心伝心はしてなかろうが,何らかの気持ちが見え隠れしておりました。
考え過ぎでしょうか。
さて,思い出せば際限がないけれど,晴耕雨読の身の上となり田畑と我が家を往復するだけの日々を過ごしていると,はからいの心というのか,妄想や強迫観念との付き合いが減り,気持ちは楽になっている。』
こんな一文が残されておりましたが,何処かで聞いたことのある「男の人は何時でもあのことばかり考えとるんやろか?」との言葉どおり,人は妄想し幸せな時を過ごしておられるなら其れも良しであるところ,意に反した妄想から逃れるためには『思わない・思わない・思わない』と念じつつ自己暗示すれば,迷いから離れて,目から鱗が落ちるのかも知れません。