(2013/1/18)
生きよう 2
上空に冬将軍が居座っているのか,畑へ出掛けたら,冷凍庫の中へ入った時のような冷たさでした。
あまりの冷たさで,畑仕事をしている人は見られず,小生も家に帰り炬燵の番をしていた。
社会では,殺人事件や自殺等の暗いニュースが多く,世の中が病んでいる様子が一農夫にも伝わってくる。
そんな訳ではないが,この世に生を受けておきながら何故に自殺するのかと考えていた。
人間なら死にたいと思う時もあろうが,死んだら全てが終わりである。
ところで,自殺をするためにビルの屋上へ行ったり,列車が通る線路の前に立ち,或いは建造物などに掛けた紐の下で覚悟を決めた時点で,死神に導かれた状態となっており,そこから正気に戻るのは困難かも知れぬところ,
そんな時でも,我に返らせるための教えや言葉があれば,自殺者が減るのではなかろうか。
キリスト教では,自殺は神の意思に反するとの理由で如何なる事情があろうとも自殺しないと聞けば,組織や教育の現場でも自殺は罪であることを教えるのも一方法である。
私ごとですが,小学校の低学年であった頃,母親によく叱られて,夜間に家の外で1時間も立たされたり,あるいは昼間でも真っ暗な物置小屋に入れられた記憶があり,その時には子供なりに死について考えたことがありました。
しかしながら,自殺する方法を知らなかったので死なずに済んだが,物置小屋では死んだら何もかもなくなって暗闇の世界に入り,そこから抜け出すのは不可能であると考えていた。
死んで終わらせるより,生きてこそ人生よ。
(2013/5/11)
魂を磨く
昨日からの雨で田畑が潤い,野菜たちにとっても恵みの雨になったようだ。
一農夫にとっては束の間の休憩となり,久しぶりに妄想と付き合っていました。
何かが気にかかり,頭から離れない時には,人それぞれの対処方があるようですが,気になっているエネルギーより大きなエネルギーで包み込むか,無の精神と入れ替えるか,あるいは全然関係ない別の気持ちへと観念を移せば心が落ち着くのでしょうが簡単には出来ない技のようです。
酒を飲む人は,その切り替えが鈍感になっている感が拭えず,自己コントロールが出来ない人で酒飲みの人は,断酒から始めると効果があるのでしょう。
ところで,知人から聞いた話ですが,ある寺の住職が更生保護の仕事をしていて,しばらくの間,関係者を寺の離れに住まわせていた頃に,住職より心が澄んでいた本人の立ち振る舞いや心の奥深くにある何かを同住職が盗みたいと思っているが簡単には盗めないとの話を知人にしたそうです。
その話を聞いた後に,小生なりに,本人は托鉢をしている心境であり,なお他人には絶対に話せない秘密を持っているからこそ平然として居られるのかもと思ったが,
人それぞれなので,何より普段から毅然とした態度で諸事に接し,なお平然とした気持ちで生きてゆく習慣をつけることが大切であると,改めて己を戒めていた。
さて,テレビの司会者やコメンテーターでも,辛抱しきれない時には腕時計や指輪に何気なく気持ちを移しているようであるが,それが分かるだけに,誰でも同じなのかと思った時もある。
何れにしても,人は誰でもはからいの心を生じさせる性質を持ち合わせているので,はからいの心が生じないようにするためには,何かをもって魂を磨くしかないようです。
(2013/10/10)
己の魂と向き合う
爽やかな秋の空が広がっていた一日でした。
午前中に居間の片付けと掃除を済ませ,午後からは畑にて石灰を撒いたり野菜への追肥を行っていた。
野菜の生育状況は今のところ良好であり,一週間くらい前にジャガイモとニンニクの芽が出て,ほうれん草・ミニカブ・レタス・キャベツ・白菜・ブロッコリー等とともに毎日少しずつですが成長しております。
この野菜作りについて,先日の秋祭りの日に近所の後輩から「退職したら百姓をしたいので野菜作りについて教えて下さいや」と声を掛けられたので,「専門的なことは教えられないが,畑を小まめに耕し,時々は石灰を撒いて土をアルカリ性に近づけて,さらに鶏糞・牛フン等も混ぜて土作りをすることは大切なんよ」と返したが,
小生も試行錯誤しながらの野菜作りであり,いつまで経っても上達せず,大自然を相手にしながらの野菜作りなので,天候に左右されることも多く,遊び半分では大きくてきれいな野菜に育たないのです。
ところで,テレビでは事件・事故のニュースが毎日のように放送されており,少しだけ辛抱したら事件にならなかったケースも散見され,何とかならないものかと今日は畑仕事をしながら考えていたが,
一農夫なりに閃いたのは,
人生とは己の魂と向き合いながら日々を過ごすことにあり,
その魂が曇った時には,神々の御力により浄化していただき,あるいは己の研鑽と努力で回復させながら,前向きに生きてゆくのみであると一考しておりました。
また,人生においては失敗した過去の出来事を思い出して心の中で葛藤することなく,そんなエネルギーがあるなら今から先のことを考えて生きてゆく方が大切であり,
その時その一瞬を正直に過ごせば,積み重ねにより人格が向上され,今までには感じられなかった充実感を得る夕べもある。
何れにしても,過去の事実を消し去ることは不可能であるが,未来は創り変えることすら可能なので,信仰心のある者は神の意思に従い,自力にて生きている者は自身を見失うことなく日々を素直に過ごせば,善なるエネルギーが発せられ,前向きで明るい人生が送られるものと思われました。
こんな寝言でしたが,
身も心もボロボロになりながらも,なお生き抜くのが人生であり,
どん底の人生が続いていても,そこから這い上がった人生もある。
死んで終わらせるより,生きてこそ人生といえるのではなかろうか。
2014/9/20
稲刈り~籾摺りを済ませて
2週間くらい好天が続いていたが,本日は明け方前から雨となり,乾ききった大地を久しぶりに潤していた。
その雨も午後からは上がり,東から吹いてくる肌寒い秋風を感じながら,農業機械を出し入れした後の倉庫内を整理しておりました。
一昨日と昨日で,我が家における秋の一大イベントである,稲刈り~籾摺りを済ませ,一安心をしたところでもあります。
今年の稲作は,雨が多くて潅水の手間が省けたものの若干の日照不足もあり,各農家では例年と比較して減収であったとのようでした。
その影響は,小生の水田でも同じとなり,畝一俵から換算すると81%の取れ高であり,昨年の失敗(肥料が多すぎて稲が倒れた)を克服したものの,豊作とは言い難い結果になってしまいました。
稲作においては,昔から初夏の田植えと秋の収穫に労力を費やすものですが,現在では乗用田植え機に大型コンバインで仕事を行なう農家が増えており,80歳を超えた老人でも若い者には負けじと張り切って稲作を続けている姿を見かけます。
小生においては,亡き父から受け継いだ旧式の歩行型田植え機・小型コンバイン・トラクター・耕運機(ティラー)を駆使しての農作業であり,本年度においても収穫前にはコンバインを整備すべく昨年に引き続き,刈り取り刃の位置を調整し,念のためエンジンオイルを交換してからの運転となった。
本年は稲が倒れておらずコンバインでの収穫作業を順調に続けられたのですが,古い機械なので搬送部分に稲藁が詰まったり,脱穀部分においては選別不能となりエンジンに負荷がかからないかと,目で見て確認し,エンジンや機械音が一定のリズムであることを認識しながら大勢の僧侶が読経しているようにも蝉時雨を聞いているようにも感じながら作業を進めてゆきました。
そんなことで,本年の稲作も事故なく無事に終了しましたが,簡単だと思える稲の栽培にこそ百姓としての奥義があると感じ入り,弥生時代から永遠と続いてきた文化を大切にしつつ,大自然の摂理に従いながら今後も米作りを行ないたいと念じたところです。
2014/10/4
秋祭りの頃に
台風18号の影響であろうと思われる風が東方向から吹いていた一日でした。
今回の台風は風台風かと思わせるように,暴風圏内に入ってないのに時には強風が吹き荒れて,畑の片隅に置いてあるバケツが飛ばされたり,まだ刈り取りの終わってない水田では稲が強風にあおられて稲穂が波打っているような光景が見られました。
本日においては,午前中に裏庭に落ちた柿の葉を拾い集め,午後からは畑にて収穫を終えたトマト・ナス・キュウリ・オクラの木を取り除く等の作業を行っていた。
田畑では農作業が一段落したと思っていたが,耕作地には探せば仕事は幾らでもあり,今後においては,少しずつ季節に応じた形作りをせねばならないと考えながらの作業でもありました。
ところで,今年も松山地方の秋祭り(10月7日)が近づくにつれて,にわかに街全体が活気づいており,各地域の寄り合い所においては,祭りに参加予定の人たちが連日のように神輿の手入れや獅子舞の練習で夜遅くまで余念なく過ごしているようです。
秋祭り前には,毎年のように天候不順となることが多く,楽しみにしていた祭り当日も小雨が降っていた日もあったと記憶しておりますが,本年の秋祭りは台風が過ぎ去って爽やかな秋晴れの日であって欲しいと願っているところでもあります。
さて,午前中に裏庭を掃除していると,橙(だいだい)の木にもクモの巣がかかっていたので取り除いてやったが,この橙の枝分かれした箇所が50年くらい前に折れて,そのままになっていたけれど,10年くらい前にその周囲の一箇所から新芽が出たので大切に育てているのですが,新芽が出る10年くらい前(今から20年前)頃から,ここから芽が出んやろかと念じていたところ,一時期に忘れておりましたが,そこから新芽が出現した時には驚いたものでした。
橙(代々)から芽が出たときに感じたことは,何事も念じることは大切なのでしょうが,純粋に念じ続けることは困難であり,念じ過ぎると成就せぬこともあるので,神仏との距離を置きながら念ずるように心がければ実を結ぶこともあると実感したものでした。
2014/10/10
秋の日々に
今日も畑仕事に精を出していた一日でした。
そろそろ衣替えの季節であり,夏と冬物の衣類を交換する時期になっているが,野良仕事をしていると気が晴れるので,毎日のように畑へ出掛けている。
野菜作りについては,季節に応じて種を蒔いたり苗を移植するのですが,小生はもっぱら除草とか耕耘・畝作りを担当し,嫁において年間に育てる野菜の種を蒔く等の時季を把握しており,季節ならではの野菜を育てています。
ここ数日においても,嫁から夏野菜の収穫を終えた畑を耕して畝を作ってくれと頼まれたので,言われたとおりに耕運機を使い作業を終わらせると,10月末までは種が蒔けるのでと独り言をいながら,既に蒔き終えた野菜の種の残りを播種しておりました。
そんな嫁においては畑を耕してやると喜んでおり,昨日なぞは久々に天然ぶりを発揮し,突然に「お父さん棒を立てて」と言うので,「何に棒を立てるんで」と返したら,「お父さんの好きな豆よ」と言うので,はてなと考えても分からずで聞きなおすと,「インゲン豆の添え木よ」と答えており,小話のようなやりとりであったと苦笑いしておりました。
ところで,我が家の裏庭では柿の葉が毎日少しずつ落ちており,秋風に吹かれ枝から離れて落ち葉となった柿の葉を眺めていると,一枚一枚に秋が凝縮されているようでもあり,初夏の季節に新芽を出して大気から木の幹に養分を送り,秋となり色づいては落ちてゆく柿の葉に人生の儚さを重ね合わせておりました。
小生においても,何時まで生かされるのか神のみぞ知るところなのでしょうが,以前の寝言に書いたような,人間いつまでも生きられなので,精一杯生きて,逝く時は桜の花が散るように旅立ちたいものである。